“昭和99年”語り継ぐ「さらば故郷…永遠に帰らじ」『特攻隊』が出撃前に滞在した宿 家族と最期の面会の場 決意記した手紙も
■飛び立つまでの揺れる思い 遺書には覚悟の言葉
「日本は戦争に勝てない」。同じように感じていた隊員が国華隊にいました。 大阪府吹田市出身で、関西大学を卒業後に陸軍に入った、巽 精造さん(当時24歳)。 家族にこう話していたそうです。 【巽 精造さんのめい 巽くるみさん】「『兄貴(精造さん)は最後に家に帰ってきた時に、この戦争は負けると言って出て行った』と(父は)言っていたので、本人は負けると分かっていたのでしょうね」 「そして最後、この(家の)上を旋回して行ったと」
特攻隊に任命されてから、飛び立つまでの2カ月間。家族に宛てた手紙からは、複雑な心の動きが読み取れます。 【巽 精造さんの4月2日の手紙から引用】「御両親様 愈々(いよいよ)晴れて特攻の家出となりました為 今更何も申し上げる事は御座居ません 只々 自己の任務に向って迈進(まいしん)あるのみです」 任命されたことを報告した手紙には、勇敢な言葉。
一方、およそ3週間後に妹に宛てた手紙では…。 【巽 精造さんの4月24日の手紙から引用】「お前達には恐らく俺等の気持は解るまいが もう生きて居る事が面倒くさくなったよ 隊長殿以下 三途の川へ行ったら何か商売でもスベエかと考へて居る」 【巽 精造さんのめい 巽くるみさん】「計り知れないですよね。生きている私たちには。その時の2カ月間くらい、飛び立つまでの心の動きというか。『さぁ行くぞ』というのもあれば、『死にたくない』というのもあるだろうし。どう奮い立たせて飛行機に乗ったんやろうと思いますね」
そんな揺れ動く心情の中、巽さんは「政乃家」で、家族と最後の面会をしたのです。 その際、飛行場で父親を乗せて、ふるさとの空を遊覧飛行した巽さん。 その後に書かれた遺書では、迷いのない、決死の言葉がつづられていました。 【巽 精造さんの6月5日の遺書から引用】「愈々(いよいよ)出撃と決りました 今更何も申すことも有りません 只々 一生懸命自分の任務完遂に努力致して参ります 思えば最後の故郷の三日間 精造にとってはどれだけ幸福な事だったでせう」