【日本3大悪女】日野富子は本当に「悪女」だったのだろうか?
■悲惨な社会に目を向けなかった義政と富子の功罪 義政が趣味にうつつを抜かし、富子が利ざやを稼ぐことに精を出しているその同じ頃、社会は実に悲惨な状況にあった。 なんといっても、1459年に発生した大飢饉が酷かった。台風の直撃によって賀茂川が氾濫。京の都だけで死者8万人以上にも及び、「鴨川は死体で埋め尽くされた」とまでいわれている。 そんな惨状の中、義政は人々の救済や飢餓対策を行うことなく、莫大な費用をかけて豪奢な邸宅・花の御所の大改築に取り掛かった。 さらに、「応仁の乱」によって荒れ果て、その復興もままならぬ1482年、義政はまたもや、趣味の茶芸を楽しむための東山殿(東山慈照禅寺、銀閣寺)の造営をも開始した。義政はこのとき、造営のために新税(段銭)と夫役を課して人々を一層苦しめたという。 その夫をたしなめることもせず、かえってこの混乱に乗じて私腹を肥やそうとした富子に非難の目が向けられるのも当然のことであった。もちろん、集めた資金で財政難に陥る幕政を立て直そうとしていた、と見なされることもあるかもしれないが、少なくとも底辺で苦しみもがく庶民のために生かされることはなかった。 権力と金、これを追い求めることは、必ずしも悪いことばかりではない。特に施政者となれば、権力がなければ、すぐに足元をすくわれてしまうからである。権力を得るには金がいるのも事実。施政者たちは、この二つの欲求を共に満たさんと、日々奔走するのも当然のことだろう。 しかし残念なことに、自己を防御するためにのみ苦闘する者に、市中の人々の苦しみは目に入らない。視界に入るのは、権勢渦巻く人々の群れでしかない。 富子の目に映るもの、それはただ、我が子の栄達、それ一つであった。我が子可愛さに、その支援者を増やして環境を整えようと奔走した結果が、多くの大名たちに対する金貸だったのではないかと思えてならないのだ。 ともあれ、富子は我が子・義尚を将軍にさせることに成功した。ならば、富子の夢は叶ったわけであるが、それが彼女の幸せに繋がったかどうか? 手塩にかけて育て上げた義尚が、成長するに及んで富子を疎んじ、反感が募って対立するようになってしまったからである。 しかも、義尚は父親譲りの道楽者であった。父の側室に手をつけてしまうこともあって、父とも仲が悪かった。乱れた生活が祟ったものか、25歳の若さで早世してしまったから、富子の努力も虚しく、夢も水の泡と消えてしまったのである。 その打開策として、追い出したはずの義視を呼び戻し、その子・義材を将軍に据えたものの、義材もまた富子に牙を剥き、富子の邸宅小河邸を破壊するとの挙に出ている。 それでも挫けない富子は、1493年、細川政元と手を組んでクーデター(明応の政変)を起こして義材を廃し、義政の甥・足利政知の子・義澄を11代将軍に据えることに成功したものの、その3年後にはとうとう、死去してしまったのである。後に残るのは、莫大な財産だけであった。 本当に彼女が幸せだったのかどうかはわからない。それでも、期待を寄せた子らからことごとく疎まれた彼女が幸せだったとは、とても思い難い。夫も子も、我が所有物のごとく独占したいとの思いが強かったのだろう。義尚に疎まれたのも、過干渉が原因と考えられそうである。 ともあれ、施政者の一旦を担う立場にありながらも、世間に広く目を向けず、権力渦巻く狭い社会にのみ目を向け続けてきた富子の罪は大きい。我が子を思う健気さが、かえって哀れを誘うのである。
藤井勝彦