【日本3大悪女】日野富子は本当に「悪女」だったのだろうか?
日本三大悪女のひとりに数えられる日野富子。「応仁の乱」を引き起こしたとされるが、「不甲斐ない夫・義政に代わって、かき集めた私財を財政難に喘ぐ幕政のためにつぎ込んだ」と言われることもある。彼女は本当に、「悪女」と呼ばれるような女性だったのだろうか? ■「日本三大悪女」は、そこまで悪いのか 日野富子といえば、北条政子や淀殿と並んで「日本三大悪女」のひとりに数えられる女性である。ただし、北条政子も淀殿も、筆者は必ずしも悪女だったとは思っていない。 夫の愛人の家をぶち壊したという政子も、多少その気があるかもしれないが、漢の呂后や唐の則天武后の残虐ぶりに比べれば、他愛ない。秀吉の側室・淀殿に至っては、なぜ悪女と言われなければならないのか、理解に苦しむところである。 では、日野富子はどうか? 「応仁の乱」を引き起こし、混乱に乗じて私腹を肥やしたと言われるが、どういうことなのか? 当時の庶民の悲惨な状況に対し、彼女はどう向き合ったのだろうか? あらためて振り返ってみることにしたい。 ■不甲斐ない夫・義政に代わって政を仕切った富子 まず、最初に語るべきは、8代将軍・足利義政のことだろう。7代将軍の義勝が在任8ヶ月にして早世(享年10)すると、そのあとを受けて将軍に担ぎ上げられたのが、義政であった。 さらに6年後の1455年、義政18歳の時に正室として迎え入れたのが、日野富子(16歳)であった。公家の日野家は、3代将軍義満や6代将軍義教など、代々足利将軍家に息女を輿入れさせていた名家である。その慣習に倣って義政のもとに嫁いできた富子は、実家の後ろ盾もあってか、多少、傲慢な面があったようである。 義政は当初こそ政に精を出していたものの、政局が不安定になり始めて嫌気が差したようで、茶芸など趣味の世界に没頭し始めていった。富子はこの夫の不甲斐なさに呆れたのか、夫婦仲も悪くなる一方であった。 元来が気丈夫で、表に立つのが大好きな性格だったのだろう。夫に代わって政局の運営に当たるようになるのも、時間の問題であった。どうやら、権力に対する執着心も人一倍大きかったようである。 次第に「政道、御台御沙汰なり」、つまり「政は御台こと富子が全て取り仕切っている」と囁かれるほどにまで、政に首を突っ込むようになっていったのだ。 ■我が子・義尚に期待するも… 実は、富子には大きな夢があった。不甲斐ない夫に代わって、その後継として我が子を次代将軍に据えることであった。その夢が叶えられそうに思えたのが1459年、富子20歳の頃のこと。第一子が生まれたからである。 ところが、その日のうちに夭逝してしまったことで、富子の歯車が狂った。その怒りの矛先を向けたのは、義政の乳母で側室でもあった今参局(お今)。富子は、「今参局が我が子を呪い殺した」と騒ぎ立てたのである。 結果。他の4人の側室ともども追放。今参局は琵琶湖の沖ノ島に流され、その直後に自害(殺害されたとも)。罪を強引になすりつけた富子を恨みながらの、無念の死だったに違いない。 その後も富子は子を生んだが、いずれも女の子ばかり。後継者となるべき男の子は、なかなか生まれなかった。そこで仕方なく、義政の弟・義視(義尋)を養子にして後継者としたものの、間の悪いことに、程なく富子に男子・義尚が生まれた。1465年のことであった。 となると、困った。義視を後継者に指名したものの、我が子が生まれたことで、富子の思惑が変わったからである。我が子を後継者にしようと、実力者のひとり山名宗全に後見を依頼したのだ。 ところが、これがとんでもない事態を招いてしまうことになる。なんと、もう一方の義視の後見人であった細川勝元と、武力をもって戦い始めたのだ。「応仁の乱」の始まりである。細川軍(義視側、東軍)16万と山名軍(義尚側、西軍)9万が激突。都合11年にもわたる大合戦へと発展してしまったのだ。 もちろん富子は、我が子・義尚を支援する山名軍に加担。しかし、あろうことか両軍に対して資金を提供したとの説が、まことしやかに語られるようになっていった。高利で貸し付けて利ざやで大儲けした、というのだ。 以前から京の都の7つの入り口(京の七口)に関所を設けていたが、運ばれてくる軍事物資に通行税をかけたことで、富子の懐に入る税も増えたとも。さらには、そこで集めた資金を元手に、米の取引をも開始。 こうして巨万の富をかき集めた富子はいつしか、「強欲な女」あるいは「守銭奴」として蔑まされるようになったのである。 ここで、あらためて見つめ直しておかなければならない問題がある。それが、当時の社会情勢である。