大阪・関西万博を前に、いま忘れてはならない昭和の小説家小松左京の警鐘 70年「人類の進歩と調和」と25年「いのち輝く未来社会のデザイン」―テーマの成り立ちを検証、見えてきた違いとは…
1965年10月20日午後、京都市内のホテル。各界の賢人たちが額を寄せ合い、一つの文章を推敲(すいこう)していた。「20世紀は偉大な進歩の時代であったが、同時に苦悩にみちた争いの世紀でもあった」 【写真】「足が太いからクビ」 大阪万博の光と影 華やかな達成の陰で、働く人に対する非人道的ともいえる扱いが… 18年
この一文を見たノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹が言った。「20世紀は1999年まであるわけですからね、争いの世紀でもあったと決め込んじゃ、これ非常に具合悪い。その間に努力しなければならないのですから」 元々の文章の起草者であるフランス文学者の桑原武夫が「20世紀」を「近代」と置き換える案を示すも、打ち出しが弱くなると懸念の声が上がる。作家の大仏次郎が提案した「今日まで」を挿入する形で落ち着き、次の修正に取りかかる―。1970年大阪万博の開催意義を宣言した「基本理念」を練り上げるテーマ委員会の作業の一幕だ。2時間半にわたって繰り広げられたかんかんがくがくの議論が会議録に残っている。基本理念をベースに生み出されたのが「人類の進歩と調和」というテーマだった。 他の文献をめくると、在野から万博の意義を考えた作家、小松左京らの存在も欠かせなかったことが分かる。一流の知識人がアジアで初めて開催される大規模イベントに向き合い、ゼロから哲学を打ち立てた。
翻って、開催が迫る2025年大阪・関西万博はどうだろうか。行政主導で決まった「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマで何を語るのか、いまひとつ分かりにくい。両テーマを巡る議事録や関連著作などから、成立過程を検証した。(共同通信=木村直登、文中敬称略) ▽そうそうたるメンバー 「70年万博」開催の機運が高まったのは1964年の東京五輪がきっかけだった。五輪と万博という国際的な事業を立て続けに開催することで、戦後日本の復興をアピールする狙いがあったようだ。地元大阪や通商産業省での検討を経て、1965年5月、日本の開催申請が博覧会国際事務局(BIE)に受理される。競合の可能性のあったメルボルン(オーストラリア)が申請をしなかったため、9月、日本開催が自動的に決定した。 準備の本格化に向けた最初の仕事の一つがテーマの策定だった。国家の威信を懸けた事業の根幹を形作るとあって、そうそうたるメンバー18人が「テーマ委員会」に招集された。主な委員は次の通り。(肩書などは当時) ・茅誠司 物理学者、前東京大学学長(委員長)