大阪・関西万博を前に、いま忘れてはならない昭和の小説家小松左京の警鐘 70年「人類の進歩と調和」と25年「いのち輝く未来社会のデザイン」―テーマの成り立ちを検証、見えてきた違いとは…
・桑原武夫 フランス文学者(副委員長) ・湯川秀樹 物理学者(日本人初のノーベル賞受賞者) ・丹下健三 建築家 ・大仏次郎 作家 ・武者小路実篤 作家 ・井深大 ソニー創業者の一人 1965年9月1日、第1回委員会が開かれた。11月のBIE理事会にテーマを報告する必要があり、猶予は2カ月余りしかなかった。10月5日に第2回委員会が開かれ、まず「基本理念」を起草する方針が決まる。草案を託された副委員長の桑原は「ほとんどかん詰状態」(日本万国博覧会公式記録)で構想を練った。 ▽「考える会」 実はテーマ委員会を裏で支えた民間の動きがあった。作家の小松左京や人類学者の梅棹忠夫らが1964年7月に結成した研究会「万国博を考える会」だ。経緯は小松が著した「大阪万博奮闘記」に詳しい。小松らはその歴史から、19世紀には技術の一大情報交換の場だった万博が、戦後になり、社会問題の提起を行う場に変化していることを知る。仮に「理念」に重きを置いた万博を開催できるなら「きわめて意義のあるものになり得る」のではないかと考えた。
ただ、政府は国際競争力を強化するため、「輸出振興」を主眼に検討を進めていた。小松は日本の技術や産業の「一大デモストレーション」にとどまれば、万博の意義は失われると危惧していた。 自発的に始まった研究会だったが、大阪府職員が彼らに助言を求めるようになったことから、準備に関与していく。テーマ委員会の副委員長の桑原が基本理念を起草する際は、考える会のメンバーがほぼ毎日会合を持ったという。ただ、あくまで小松は在野の立場を堅持し、政府や行政におもねらない。官僚主義的な流れに対抗するように、万国博覧会協会の職員にたんかを切る場面もある。取材に来た記者に吐いたせりふが象徴的だ。「『人類の知的、文化的、精神的共有財産』のために仕事をひきうけたんです。『お国のため』なんて(中略)まっぴらですね」 ▽感情的な問題が起こっても では、テーマ委員会では実際にどのような検討がなされたのか。「テーマ委員会会議録」(日本万国博覧会協会)からは各委員の真剣さが伝わってくる。