亜細亜大学野球部大物OB対談「プロになれた理由」と「”日本一の厳しさを”乗り越えたからこその未来」…「恋人の手紙に一緒に涙した仲間」「上級生と一体になれた伝説のドラマ」「真剣にハラをくくってくれた恩師」
「僕はあのときに戻りたい」
阿波野 与田が初めてリーグ戦で勝ったのは、そのときの春だよね。 与田 そうですね。初戦で、君が代を聞いてマウンドで一人、泣いていましたから。初戦だけ君が代が流れるんですよね。「東都のマウンドで君が代が聞けた!」って。先発して5回か6回しか投げていないと思います。そのあとを阿波野さんがリリーフして助けていただいた。 阿波野 6回投げたんじゃないかな。 与田 日大戦で、確か6対4とかのスコア。僕は多分4点取られて、もうアップアップだったんです。大学の勝ち星はあの1勝だけですけど、本当に宝物です。 阿波野 手術はそのあとか。 与田 そうですね。夏に右手の人差し指と中指の血行障害で手術をすることになるんですけど、そのときの投げ込みが1つの要因になったかもしれませんが、自分で選んだことですから。 NTT東京(現NTT東日本)を経てプロに行けたのも亜細亜での4年間があったからなのは間違いない。同部屋になったときも、プルペンで隣で投げたときも阿波野さんを見て学ばせていただいたり、真似させていただいたりした。そういうすごい方たちに出会える場所でもありました。 プロでも中日の監督のときに投手コーチとして力になっていただきました。亜細亜に行かせてもらってよかったなとすごく思っています。 阿波野 後輩たちも「軍隊」とか「刑務所」とか「いくらもらっても二度と戻りたくない」とか、いろいろ言っているけど、それはあくまで1年生のときをクローズアップしているだけだと思うし、特にプロになった連中は亜細亜での4年間を感謝しているはずだよ。 与田 僕は戻りたいと思うことがあります。振り返ってみるときちんと野球に向き合えていない時期があって、情けないなと思うようなことがいっぱいありました。もっと早く気がつけたのになっていう場面もたくさんあって、もったいなかったなあって。 その後悔があるから社会人のときには同じようなことにならないようにできたんですけど。お金は要りませんから、そのときにちょっと戻って、ちょこちょこ修正して頑張って、またこっちに帰ってきたい。 阿波野 でも、そこに戻ってからずっとだったら、どう。 与田 いやあ、そこからもう一回やり直せってなったら…絶対に戻りたくないです(笑) ……・・ 【はじめから読む】侍ジャパン・井端監督も出身!「地獄、刑務所と表現したOBも」…阿波野秀幸氏と与田剛氏が振り返る「日本一厳しい」《亜細亜大学野球部》での「想像を絶した日々」
週刊現代、鷲崎文彦
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