亜細亜大学野球部大物OB対談「プロになれた理由」と「”日本一の厳しさを”乗り越えたからこその未来」…「恋人の手紙に一緒に涙した仲間」「上級生と一体になれた伝説のドラマ」「真剣にハラをくくってくれた恩師」
与田氏を叱責した後輩とは
与田 それに一度も試合用のユニフォームを着たことがない人たちのこともすごく面倒を見て、かわいがっていましたよね。卒業後の就職先探しは、そういう人たちをいの一番にやっていましたから。マネジャーとか、裏方で支えていた人たちは結構いい会社に就職されていましたよね。 阿波野 そうだったね。 与田 僕も4年間のうちのほとんどがレギュラー組ではなく、自分たちでそう呼んでいた「カス組」でした。1年生のときも、2年生のときも公式戦で投げることができなかった。フリーバッティングでも速い球を打つ練習のときだけ呼ばれるんですけど、レギュラー組に一生懸命投げようと思ってもコントロールが悪くてぶつけられるって、主軸の人たちはみんな「おまえ、与田のところ行けよ」「おまえが行けよ」と嫌がって誰も打席に来てくれなかったです(笑) 阿波野 それだけ球が速かったというのもあるけどね。 与田 結局、ストライクが入らず「もうええぞ。ブルペンで投げとけ」って。それでもプロになる目標は捨てきれなくて、もがいていました。でも、そんな僕でも矢野さんは見てくれていました。3年の春に部屋に呼ばれて「1年、2年と見てきた。おまえ、勝負かけるんだったら、もうボロボロになって終わるか、日の目を見るか、どっちかに賭けろ。どうだ」と言ってくださった。 僕自身も阿波野さんとか錚々たるメンバーを2年間見てきて、このままじゃダメだっていうのがありましたから、「わかりました。体がボロボロになったら、そのときはやめます。そういう覚悟でやります」と返事して、翌日以降、朝からずっとボールを投げ続けました。カス組は、レギュラー組よりも2倍、3倍やらなきゃいけないわけですから。 阿波野 本当にずっと投げていたよね。 与田 はい。来る日も来る日も500球以上投げました。1000球近く投げたときもありました。別に何球投げろと言われているわけではなく、自分で決めていたというか、矢野さんがずっとうしろに座って見てくれていて、それならできる限り投げ続けようって。1対1で話したとき矢野さんは「ワシも腹をくくる」とも言ってくださって、そういう方だったからついていけた。 阿波野 うん。 与田 受けてくれるキャッチャーも矢野さんが「おい、キャッチャー代われ」と言うと、1日4人、5人と協力してくれた。みんな自分の練習があるのに同級生から、後輩、先輩たちも嫌がることなく捕りに来てくれた。それはすごく感謝しています。 阿波野 矢野さんの期待も大きかっただろうしね。 与田 そのときの後輩の中には前監督の生田(勉)もいて、あいつに叱咤されたことも覚えています。それだけ投げているとさすがにフラフラになる。すると「一生懸命、捕っているんですから、ちゃんと投げてください!」って。生田にもすごく感謝しています。 1週間くらいで肘が飛んじゃいましたけど、やるしかなかったですから。
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