道長が退位させた「三条天皇」愛を貫く意外な素顔。次々に後ろ盾を失った天皇を支えた相手
■母と祖父と後ろ盾を次々に失う まず、居貞親王にとって痛手だったのは、後ろ盾となる生母を早くに失ったことだ。藤原超子は居貞親王がわずか数えで7歳のときに亡くなっている。『小右記』や『栄花物語』によると、突然の死だったようだ。 寛和2(986)年6月23日、花山天皇の退位によって一条天皇が7歳で即位すると、兼家が摂政となり、7月16日に居貞親王が11歳で皇太子となった。その日の午前中に、居貞親王は兼家の東三条邸にて元服の儀を迎えている。
一条天皇は、父の円融天皇と母の藤原詮子が不仲だったため、父とあまり会えず、兄弟姉妹もいなかった。それに比べて、居貞親王には弟として、第3皇子の為尊親王、第4皇子の敦道親王がおり、兼家としても今後に期待していたのだろう。永延元(987)年、兼家は三女で14歳の綏子(すいし)を東宮妃として、居貞親王のもとに入内させている。 居貞親王と綏子との間にいつか皇子が生まれれば……と兼家はさらに盤石な体制をもくろんだが、自身の寿命が近づいていた。それから3年後の正暦元(990)年、ようやく一条天皇が11歳で元服し、居貞親王が15歳となる年に、兼家はこの世を去ってしまう。
母に続いて、祖父まで亡くした居貞親王は、綏子との関係もうまくいかなくなり、正暦2(991)年に新たに妃を迎えている。それが長年、居貞親王を支え続ける藤原娍子である。 娍子の父・済時は藤原師尹の次男で、大納言兼左大将だった。家柄や地位という面では、注目するに値しなかったが、それでも居貞親王が4歳年上の娍子を熱望したという。 実は、かつて花山天皇が娍子に入内を求めたが、娍子の父が固辞したという経緯があった。色好みとして知られた花山天皇に選ばれるだけあり、娍子は美女だったといわれている。
その後、長徳元(995)年には、藤原道隆の次女・原子が入内し、居貞親王の新たな妃となるが、すぐに道隆は死去。兄の伊周や隆家も失脚し、姉の定子も亡くなってしまう。子をもうけることもないまま、原子は22歳の若さで死去している。 ■娍子を寵愛し続けた三条天皇 一条天皇の治世が非常に長く続くなかで、居貞親王は皇太子として25年も過ごすことになる。不遇な時代ではあったが、その間、後見の弱い娍子を寵愛し、4男2女をもうけたことを思えば、家庭の幸せには満ちていたのではないだろうか。「男は妻がらなり」と妻の家格に重きを置いた道長とは、また違う価値観が三条天皇にはあったのだろう。