道長が退位させた「三条天皇」愛を貫く意外な素顔。次々に後ろ盾を失った天皇を支えた相手
一条天皇の病が重くなると、寛弘8(1011)年6月13日、居貞親王は36歳にしてようやく三条天皇として即位する。 だが、約4カ月後の10月24日には、父の冷泉院が崩御。すでに弟の為尊親王は長保4(1002)年に26歳で病死し、もう一人の弟・敦道親王も寛弘4(1007)年に27歳の若さで死去している。 父の死によって、いよいよ親族がみな亡くなった三条天皇。心の支えは娍子と、その子どもたちだった。 道長の次女・妍子を中宮とした三条天皇が、そのあとすぐに長年連れ添った妻・娍子も強引に皇后としたのは、父の死から数カ月後のことであった。
【参考文献】 山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社) 『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫) 『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫) 倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館) 今井源衛『紫式部』(吉川弘文館) 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書) 関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば』 (ミネルヴァ日本評伝選) 真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
真山 知幸 :著述家