「今でも会いたい…元気な息子返して」23年前『集団登校』狙いワゴン車が列に突っ込んだ…うずくまる児童の傍に散らばるランドセル 7歳息子を亡くした父親 20年以上経っても変わらない悲しみ
2年にわたる裁判 傍聴席に座り続けるも・・・「ずっと蚊帳の外」
事件から約10か月後。児童ら12人を死傷させた傷害致死の罪に問われた男の初公判が開かれました。男は裁判の冒頭、「弁護人の退任をお願いしたい」などと興奮して申し立て、一時休廷する事態になりました。 その後も男は「わざと轢いたのではない」などと一貫して起訴内容を否認し続け、遺族や被害者家族らを愚弄するような言動や裁判所の制止も聞かずに法廷で大声を上げるなどの言動を繰り返しました。好き勝手な言動をする男を前に、湯浅さんは感情を押し殺すしかなかったといいます。 (湯浅さん)「私が事件にあったときは、本当にもう蚊帳の外だったんですね、ずっと。今は意見を法廷内で色々と言わせてもらったり、参加型みたいな形になっていると聞きますけど、被害者の親というのは第三者という見方しかその時はなかったので、傍聴席で何も言うことができません」 裁判開始から約2年間。湯浅さんは傍聴席に座り続けましたが、加害者からは罪に対する反省を一切聞くことなく、判決の日を迎えました。京都地方裁判所舞鶴支部が下したのは、懲役18年の実刑判決。最愛の息子の命を思うと、あまりに軽すぎる判決でした。 (湯浅さん)「殺人罪で僕はやっぱり起訴してほしかったです。ただ、(事件当時乗っていたのが)車なので、車は本当に殺そうと思ってやりましたって言わないと認められない。(懲役)18年でしたかね…。短い…。裕介が亡くなったことに比べたらやっぱり短いと思うんですよ」
突然知らされた男の「獄中死」 怒りのやり場を失う
裁判の結果や加害者が刑務所でどう過ごしているか、出所時期など、被害者や遺族が検察庁から情報提供を受けられる「被害者等通知制度」。制度導入から間もない事件当時、知らされたのは“獄中で死亡”という、あまりにも突然で信じ難い事実でした。 (湯浅さん)「弁護士を通じて、どういう経緯でなぜ亡くなったのかとか、どういう生活をしていたのか、反省していたのかとかいうことを聞いてもらったんですが、一切それは(伝えられず)。死亡の事実しか伝えられません、怒りを全部犯人の方に向けていましたので、それが急になくなって、じゃあこの怒りをどこへ、という・・・すごい消化するのに気持ちの整理がつかないような状況でした。こういう風にして亡くなりましたということを教えてもらったりできたら、ちょっと明るくなるんじゃないかなと思ったりしたんですが、それも叶わずだった」