「今でも会いたい…元気な息子返して」23年前『集団登校』狙いワゴン車が列に突っ込んだ…うずくまる児童の傍に散らばるランドセル 7歳息子を亡くした父親 20年以上経っても変わらない悲しみ
どうしてあの時・・・「何度も自分を責める」
湯浅さんは何度も涙をぬぐいながら、事件前に裕介さんと十分に遊ぶことができなかったことへの悔しさを語りました。 (湯浅さん)「(事件前日は)休みだったので、午前中、私とキャッチボールをして、昼は妻にホットケーキを作ってもらって、おいしい、おいしいって食べていました。昼からも『お父さんキャッチボールしよう』と言われたんですが、ちょうどそのころ資格の試験があって『試験勉強あるから遊んでられへんわ、一人で遊んでおいで』と、そういって冷たく、断りました。なんで無理してでも遊んでやらんかったんだ、なんでそれができなかったんだ、自分を責めることしかできません、いまでも遊んでやれなかったことを悔やまれます」 実は事件の少し前から、付近では不審者情報があり、保護者が登下校に付き添う対応がとられていました。しかし直接的な被害がなかったことから付き添いを中断していたといいます。 (湯浅さん)「あの時、登校の付き添いをやめなかったら、もし集合場所に遅れてもいいんやで、と言ってやっていたら、あの事件に遭わずに裕介は死ぬことはなかったんじゃないか・・・、そう思って自分を何度も何度も責めました。22年経った今でも裕介があのままの姿で、真っ赤なほっぺをして『ただいま!』と帰ってきてくれるような気がして」
被害者12人中、亡くなったのは裕介さんのみ 遺族の複雑な思い
この事件では児童ら12人が巻き込まれ、そのうち4人が重傷、7人が軽傷でした。しかし、亡くなったのは、裕介さん一人。お参りに来てくれた人の、何気ない一言にも傷ついてしまう…苦しい日々もありました。例えば『よう我慢しとるな、俺やったら許されへんわ、復讐しに行ってるわ』という言葉を聞くと…。 (湯浅さん)「そんなん当然そう思っています、我慢・・・しないと仕方がないじゃないですか。子どもを守れなかったとすごく自分を責めているのに、その上『俺やったらするけどお前はようせーへんのか、大切な子どもをそういうふうにされて…』そういうふうに聞こえました。『笑えるんや、よかった』この何気ない言葉ですが、心の底から笑うことはできませんし、元気なわけがありません」