幕末維新期を通じて、幕府側で活躍した唯一の人物・勝海舟、波乱万丈の77歳の生涯と海軍構想
(町田 明広:歴史学者) ■ 幕末維新史の偉人・勝海舟の特異さ 幕末維新史の偉人として語られる武人としての人物は、その多くが薩摩藩や長州藩などの西国諸藩の藩士たちである。例えば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、大隈重信らが挙げられよう。彼らは薩長土肥と言われる薩摩・長州・土佐・肥前の4藩の代表的人物であり、江戸幕府を倒して明治政府を樹立した、いわゆる勝者側の人物群である。 【画像】結城素明画『江戸開城談判』聖徳記念絵画館蔵 勝海舟と西郷隆盛が、江戸開城をめぐり交渉する場面を描く そのような中で、この時期を通して活躍した幕府側の人物で、唯一と言っても過言でない偉人として、勝海舟(1823~1899)を挙げたい。これについては、多くの読者にも納得いただけるのではなかろうか。ところで、なぜ、勝海舟だけが負け組の中で、唯一の勝ち組になれたのか。その理由は、様々であろうが、1つには、勝が薩摩藩など西国雄藩にもパイプを持っており、維新後も新政府の高官になるなど、活躍を継続していることによろう。 さらに、勝は日本の近代海軍に発展する基礎作りをしており、かつ江戸無血開城の立役者として、記憶されている点を見逃すことは出来ない。今回は、近代海軍の祖とも言える勝にスポットを当てて、その海軍構想はいかなるものだったのか、その結実となった神戸における海軍操練所と勝塾の実態について、そのキーマンである姉小路公知・坂本龍馬・横井小楠などにも言及しながら、3回にわたって紐解いてみたい。
■ 勝海舟とは、どのような人物なのか? では最初に、勝海舟とはどのような生涯を送った人物であったのか、触れておこう。勝は当時としては長命であり、活躍期間もずば抜けて長いため、幕末期を中心に、至極簡単になることをお許しいただきたい。 勝は幕末・明治時代の政治家である。文政6年(1823)1月30日生まれで、幕臣の勝惟寅(これとら)の長男である。名は義邦、のち安芳(やすよし)。通称、麟太郎。安房守(あわのかみ)。蘭学・兵学を学び、嘉永3年(1850)に江戸で蘭学塾を開設した。 安政2年(1855)、目付・海防掛の大久保忠寛から推挙され、蕃書翻訳所に出仕した。さらに、同年に海軍伝習生頭役として長崎の海軍伝習所に赴き、オランダ士官より航海術を習得した。安政5年(1858)、江戸に帰り軍艦操練所教師方頭取となり、安政7年(万延元年に改元、1860)には日米修好通商条約批准使節の新見正興に随従して、咸臨丸で太平洋を横断した。 帰国後は各職を歴任し、文久2年(1862)には軍艦奉行並として、本稿でも取り上げる神戸に海軍操練所の設置に尽力した。かつ、私塾を設けて幕臣だけでなく、坂本龍馬を始めとする西国の尊王志士などにも士官教育を施した。勝の頭の中には、オールジャパンで海軍を建設し、ひいては日本の富国強兵を実現しようとする、当時としてはスケールが規格違いの構想があったのだ。 慶応2(1866)、宗家を継いだ徳川慶喜に大坂に召され、敗北した幕長戦争(第二次長州征伐)の講和談判のために一時登用された。しかし、慶喜とは元々そりが合わず、しかも、親仏派(フランスと手を組んで西国雄藩に対抗した、小栗忠順を中心とする主戦的なグループ)と対立して逼塞した。 慶応4年(明治元年と改元、1868)、陸軍総裁となり、西郷隆盛と会見して江戸無血開城を実現した。明治6年(1873)、海軍卿兼参議となって大久保利通政権を支えたが、明治8年(1875)には免官となった。その後は、徳川家の後見と旧幕臣の生活救済に努めるとともに、旧幕府史料を編修して「開国起原」「吹塵録」などを著した。自伝として、「氷川清話」などがある。明治21年(1888)に枢密顧問官に就任し、伯爵となった。明治32年(1957)1月19日に死去、波乱万丈の77歳の生涯であった。