「警察庁潜入は簡単だった」 国松警察庁長官狙撃事件を自白した秘密工作員の語った犯行の驚くべき一部始終
「週刊新潮」の取材をきっかけに、国松警察庁長官狙撃事件への関与を口にするようになった中村泰(ひろし)受刑者。取材開始から5年後、ついに彼は捜査当局に対して詳細な供述をするに至る。その驚くべき内容とは―― 【写真を見る】中村容疑者の語った「警察庁への潜入方法」とは 中村を追い続けた記者、鹿島圭介氏の著書『警察庁長官を撃った男』をもとに見てみよう。(前中後編記事の後編。前編〈「警察庁長官を撃った男」は筋金入りのプロ犯罪者だった あまりに特異な人物像を弟が証言〉では親族の語った中村の特異なキャラクター、中編〈「私が撃ちました」 地下秘密工作員・中村が「国松警察庁長官狙撃事件」を自白するまでの攻防〉では、記者や取調官との生々しいやり取りを紹介している) ***
一旦(いったん)、話し始めると、中村は雄弁に事件の詳細を語った。ただし、意を尽くさない安易な文面には納得せず、取調官が急ぎ先に進むことを許さない。徹頭徹尾、供述調書の文章にこだわった。 《私が警察庁長官を撃ちました。暗殺目的で狙撃したのです》 こう自供された供述調書を証拠として、「中村捜査班」は、捜索差押許可状を裁判所に請求。これが認められて許可状が出され、中村の証拠資料一式は歴史の闇に消失することなく、無事、保全された。すでに大阪の現金輸送車襲撃事件の判決は2008年6月に確定したが、関連資料は捜査当局のもとで守られ、今現在も、(訪れるかどうか分からない)次の出番を待っているところだ。
自供
一度、調書の作成に応じると、中村は進んで捜査当局に協力するようになった。その後すぐに、より詳細な供述調書の作成にも応じた。こうして、事件の全貌(ぜんぼう)を伝える供述調書や裏付け資料は高く積み上げられていったのである。 その供述内容はいかなるものだったのか。以下に、彼が、私との面会や書簡のやりとりなどで明かした犯行の全容に関し、その主要部分をお伝えすることとする。 《かつて私は、ある同志とともに、「特別義勇隊」という少数精鋭の秘密の武装組織の結成を目指しました。この非公然の「特別義勇隊」がある謀略の意図のもと、その最初にして最後の実戦行動として、決行を企図したのが、国松孝次・警察庁長官の暗殺でした。 決行に使った拳銃、コルト・パイソンは、8インチ銃身という長銃身のもの。357マグナム口径の回転式拳銃で、1987年にアメリカで購入したものです。サウス・ゲート市というロス南郊の町にあるウェザビーという銃砲店の支店で、テルオ・コバヤシ名義の運転免許証をIDとして示し、600ドル台後半で買いました。ホローポイントタイプの357マグナム・(ナイロン樹脂でコーティングされた)ナイクラッド弾は、米国のガン・ショーと呼ばれる、ガン・マニアたちが集まる銃器類の見本市で手に入れたものでした。 いずれも、「特別義勇隊」用の武器として、新宿の貸金庫に隠匿していました。 ところで、94年に松本サリン事件が発生し、95年の元旦の読売新聞の報道で、オウムがサリンを製造していることが分かりました。私は、警察が教団に対し、水面下で懸命の捜査を推進しているものと思い、その実態をさぐるため、2月から3月初旬にかけ、当時、霞が関の中央合同庁舎2号館ビルにあった警察庁に潜入諜報活動を繰り返しました。オウムに対する警視庁や山梨県警などからの報告書を入手し、強制捜査は準備されているのか、されているとすれば、いつ頃、着手の予定なのか、捜査状況を探ることが最大の目的でした。