専門家が「専門外」についても語る社会は健全か 「数値を出さなきゃ意味がない」が逃す利得
そう言える理由はいくつかある。まず、「特定の専門家による専門知の伝達」という流れのみを支持してしまうと、ますます専門の狭隘化が進むからだ。風呂に水をためる専門家とか、「どこに存在するかわからないけど、それには詳しいだろう人」しか頼るべきでないという流れは、きわめて危なっかしい。 研究者の世界は、そんな超特殊な専門性を形成するようには本来できていない。反面、それがウケることを察知して、メディアに向けて専門性を「詐称」する人も生まれるだろう。なお、私は別にZ世代の専門家ではないと、この場を借りて断っておく。
また、専門知が求められる社会課題は往々にして複合領域であり、単一の専門知だけで解決不可能である、ということにも注意すべきだ。風呂に水をためる問題を本気で考えるなら、誰に問うべきか。災害の専門家か。災害の専門家とは、どこで何をしている人々か。 私は、土木工学などを思い浮かべた。実際、土木工学者の方が防災を研究しているのを知っていたからだ。という話を建築士の方にしたところ、風呂の話なら土木って感じではないですね、建築学のほうが近いのでは? と意見をもらった。「ちなみに水をためると波を起こして振動を吸収できるので、私は意味あると思いますよ」とも仰っていた。
元々の発信者は災害時にためた水でトイレを流すことの危険を訴えていたようなので、そうなると大学の先生よりメーカーの技術者のほうが専門家としては詳しいかもしれない。ただそういう方々は業務上論文を書かないこともあり、「専門家の論文がほしい!」と素人が叫んでも、そんなもの世の中に存在しない可能性すらある。 コロナ禍にせよ、解決がめざされる困難な社会課題は、たとえば医学者、疫学者、医療者、経済学者、公共政策学者など、それぞれのプロが集まって、慎重な合議のうえで意思決定する必要があったはずだった。専門知は集合知なのだ。ただ一般的には、どこかに存在するたった1人の専門家のたった1本の論文が日常のお悩みに答えを与えてくれる、それが専門家の使い方だ、と思われつつある。はっきり言って、危険な誤解である。