極端な思考、ミスへの恐怖...若者が抱える“職場の困難”のリアル
「ミスを過剰に恐れる若者」と「育てる余裕のない企業」
若者たちが非常に過敏であり、打たれ弱いという指摘は方々でなされている。上司が少し注意したらショックを受けて出社しなくなった、客からのクレームを真に受けて心を病む、後輩より成績が劣ったことで他部署への異動を訴える......。こうした心の弱さが幼少期からの経験と深くかかわっているという指摘は一理ある。 今の子どもたちは自由に何かをさせてもらっているというより、大人たちから過剰なほど守られて育ってきた。やるべきことを逐一指示され、いろんな大人におぜん立てされ、「すごいね」「がんばってるね」と言われてきた。 またその反面、大人が介入したり軌道修正を促すことが重要な場面で放置されたままだったり、必要以上に厳しい親の管理下に置かれる事例などもある。 おそらくこれは昭和の時代にあった悪い意味での放任主義や厳格なしつけの反動として起きたことだろう。しかしそれが行き過ぎれば、子どもたちは何かを選択する、自らの失敗を分析する、困難を乗り越えることで成長するといった経験が奪われてしまう。 彼らの中にあるのは、大人が与えてくれたことをこなせるか、そうでないかだけなのだ。こういう子どもたちが成長した時、「オール・オア・ナッシング」の考え方になるのは当然だろう。 もし自分の考えでやるべきことを決め、失敗を自己責任と割り切って乗り越えてきた経験があれば、社会に出た後に多少のミスをしたところで、「このミスはこの程度だからこうやって乗り越えればいい」と切り替えることができる。 だが、オール・オア・ナッシングの若者たちは、些細なミスをしたり、上司にちょっと注意されたりしただけで、人格否定されたような気になって「人生終わった」と絶望し、もはや自分の居場所はどこにもないと考え、職場から逃げるか、その人間関係を絶とうとするかする。三平氏は話す。 「こうしたことって、会社の些細な業務の中でも見られるんです。若い子たちはよく『これは無理』『俺、できない』と言って苦手なことを回避する傾向があります。会社の電話番を指示されたのに、電話に出ようとしないって話もよく聞きます。 もし何かが苦手ならやってみて慣れればいいのではと思うんですが、彼らはそうは考えない。なぜだと思いますか? おそらく、とてつもなくミスが怖いんです。 苦手なことをやってミスしてしまったら、自分はダメな人間だと思われると考えている。だから、苦手なことは極力避けるという姿勢になるように、私は感じています」 電話の例でいえば、若者たちは電話に慣れていないから出たがらないというより、苦手なことをしてミスすることを恐れているという。 電話口で想定外のことを聞かれ、即答できなかったり、とんちんかんな返事をしたりすれば、ダメ人間のレッテルを貼られると思って戦々恐々としているのだ。それくらい失敗するのが怖いのである。さらに三平氏はつづける。 「退職の時なんかも同じです。最近は、『退職代行』なんてビジネスがありますが、自分で会社へ行って辞めるということを伝えられない。そこで怒られるのではないかと考えると恐怖でしかないのです。 とはいえ、何万円か払って退職代行を使う人は会社から見たら、まだ良いでしょう。本当に深く傷ついてしまった人は、退職代行すら使わずに、いなくなってしまいますから」 若者たちの「ミスするのが怖い」「ダメ人間と思われたくない」「傷付きたくない」という気持ちが、社会人として必要な基本的なコミュニケーションを阻害しているのだ。こうしたことは、職場の中だけのことではなく、若者が恋愛をしなくなったり、旅行をしなくなったりすることとも通じるものがあるかもしれない。 とはいえ、昔もこうした若者は一定数いたはずだ。当時と今とでは何が違うのだろう。横で話を聞いていた代表理事の白砂氏は、次のように話した。 「昔も主体性がなかったり、ミスを過剰に恐れたりする人はいたはずです。でも、経済的な余裕があった時代では、企業がそういう人たちを長い時間をかけて育てていました。だから、初めは苦手でもだんだんとミスを細かく分けて考えられたり、対応方法を学んだりしていけた。 でも、今は企業も人を育てる余裕がなくなっていて、特に人を育てる余力のない企業ほど、即戦力を求める傾向にあります。まず非正規雇用で雇ってみて、使えないと見なせば解雇して別の人を雇う。 これではできない人は、いつまで経ってもできないままということが起きてしまう。これは社会全体の問題と言えるかもしれません」 即戦力を求める会社には、長い目で若い社員を育てようという余裕がない会社も多く、そうした企業に主体性がなく、打たれ弱い若者が入社すれば、ハードワークやマルチタスクに耐えられず、逃げるように会社を去ってしまうのは容易に想像できることだ。 では、こうした若者たちをどう育て、社会にもどしていけばよいのだろうか――。 (編集部注) 「国語力」の定義については、『Voice』2023年5月号「危機に瀕する日本人の国語力」の中で、石井氏は以下のように述べている。 2000年以降ほとんどの年度で、企業は入社試験の際に重視する要素として「コミュニケーション能力」を一位に挙げてきた。(中略)だが、コミュニケーションとは複数の能力の総合体であって、語彙や共感性はその一つでしかない。 文部科学省は、この総合的な能力を「国語力」と呼んでいる。まず、人は年齢相応の豊かな語彙を身につけなければならない。 その語彙をベースにして、自分の感情を細かく分析して感じ取る「情緒力」、他者の気持ちや見知らぬ世界を思い描く「想像力」、物事の因果関係を考える「論理的思考力」を磨いていく。そしてそれらを駆使して自分を表現することで他者と関係性を築き、社会での立場を獲得する。(中略) 国語力とは、いわば語彙をベースにして、情緒力、想像力、論理的思考力をフル回転させ、社会の荒波のなかでバランスを取りながら進んでいくための「心の船」のような力だ。逆に言えば、それがなければ、人びとはいとも簡単に荒波に揉まれて転覆してしまう。
石井光太(作家)