「78年の屈辱」センバツ滋賀勢躍進の原点 強化策が結実、近江準V
第94回選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催)で、補欠校からの出場となった滋賀の近江が準優勝した。近畿の府県で唯一、春夏の甲子園で一度も優勝経験がない滋賀県勢だが、昨夏も近江がベスト4に進出するなど近年はコンスタントに好成績を残している。躍進の原点は、オールドファンに「滋賀は弱い」というイメージを植え付けた、あの「屈辱の年」にあった。 【決勝を写真で】近江vs大阪桐蔭 1994年に発刊された滋賀県高校野球連盟の連盟史「球跡(たまあと)」には「甲子園で屈辱の年」と明記されている。「78年」のことだ。春の選抜1回戦で、比叡山が前橋(群馬)の松本稔投手に春夏通じて初の完全試合を喫した。球跡の記述は「時に、3月30日午後3時55分」と時代がかり、「まさか史上初とは夢想だにしなかった。忘れられない記録である」と悔しさがにじむ。その前橋は2回戦で松本投手が打ち込まれ、福井商に0―14と完敗。完全試合が一層悪目立ちすることになった。 同じ年の夏、全国高校野球選手権大会にはその比叡山を滋賀大会準決勝で破った膳所が出場。夏の県勢初勝利を目指したが、1回戦で大会屈指の左腕・木暮洋投手を擁する桐生(群馬)に0―18で敗れた。放ったのはボテボテの内野安打1本。つまり、滋賀県勢はこの年、春夏の甲子園で合わせて1安打しか打てなかったのである。 中学の先輩たちが比叡山と膳所の選手として出場し、甲子園でこの2試合を目の当たりにした馬場光仁・元県高野連理事長(現・県立堅田高校長)は語る。「あの年の比叡山は力があると見られていただけにショックが大きかった。長らく関係者の間でそれ(完全試合)に触れてはいけないムードもあったぐらい。夏の膳所もああいう試合になってしまい、全国的に『やっぱり滋賀は……』という印象が強まったのでは」。その上で「でも県の高校球史はあの年抜きに語れない。滋賀の高校野球はあの年にスタートしたと言えます」と強調する。 比叡山は翌79年夏に3勝して8強に進出、以後も夏に瀬田工や甲西が4強に進んだ。21世紀に入ると更に活躍が目立つようになり、2001年夏に近江が県勢で初めて準優勝を果たした。08年春の2回戦で優勝候補の横浜(神奈川)を破るなど甲子園で5勝を挙げた北大津や、16年春に8強入りした滋賀学園、18年春3回戦で増居翔太投手が花巻東(岩手)を九回まで無安打無得点に抑えた彦根東などが甲子園で強い印象を残している。この大会には近江、膳所と合わせて県勢3校が出場したことでも話題になった。 球跡の編集に記録員の一人として関わった八木孝夫・県高野連副理事長は「屈辱の年を機に、県内の高校野球関係者を挙げて、技術はもちろん食育を含めた指導講習会や海外遠征、選手が県内の高校に残ってくれるよう中学生相手に体験教室を開くなど強化策に取り組んだ。長年の成果が少しずつ実を結んでいる」と胸を張る。そうしたかいあって、全国の高校野球部員数は14年度をピークに減少傾向にあるが、県内では私学に偏っているとはいえ、あまり変わっていないという。 31日の決勝で先発した近江の山田陽翔、大阪桐蔭の前田悠伍の両投手はともに滋賀県出身。それ自体、滋賀の野球の躍進を証明している。山田投手のけがの影響もあったのか、近江は大敗したが、数十年前の滋賀県勢のような「ひ弱さ」はみじんもなく、関係者に落胆の色は濃くない。 「もう『屈辱』なんて昔の話。後は全国制覇だけです」(八木副理事長)【山本直】