中日内野手の衝撃能力「米国向きだったかも」 4戦5発の大暴れ…MLBの猛者を凌駕したスピード
宇野勝氏は1981年の日米野球で1試合2本塁打
元中日内野手の宇野勝氏(野球評論家)は日米野球で好結果を残したことでも知られている。1981年は1試合出場で2本塁打、1984年は3試合で3本塁打を放ち、日本にホームランバッター「UNO」ありを見せつけた。もっとも「遊びに来ていた連中から打ったってねぇ」とサラリ。まだメジャーリーグが身近ではなかった時代だが「性格的にはもしかしたらアメリカ向きだったかもしれないけどね」と“自己分析”した。 【写真】セ・リーグの元人気チアの美しすぎる開脚「可愛すぎ」「すごいです」 1981年、プロ5年目の宇野氏は128試合に出場して打率.282、25本塁打、70打点と大きく飛躍した。8月26日の巨人戦(後楽園)で、ショートフライを額に当てる“ヘディングエラー”で有名になったが、バットは一気にレベルアップした。10月31日から日米野球が開催。1980年はワールドシリーズで敗れ、1981年はア・リーグ地区シリーズで敗退したロイヤルズが来日して17試合、行われた。 後楽園球場で開幕し、仙台、横浜、西武、草薙、ナゴヤ、西宮、甲子園、大阪、倉敷、広島、熊本、平和台で戦うスケジュールで17試合中、7試合は巨人が対戦。2試合だけ全日本戦が組まれたが、あとは巨人と大洋、巨人と西武など、巨人プラスの連合チームとの試合だった。宇野氏が出場したのは11月12日の第9戦(ナゴヤ球場)だけ。巨人・中日連合の「6番・遊撃」で出場し、3打数2安打2打点だった。試合は5-1で巨中連合が勝利した。 宇野氏の2安打はいずれも本塁打。その年、メジャーで11勝を挙げたラリー・グーラ投手に2発を浴びせた。「打ったって自信とかにはならなかったよ。だって彼らは遊びで来ていたから。真剣味をあまり感じなかったからね。真剣にやっていてのホームランだったら違っただろうけどね」と言うが、誰もが打てたわけではない。しかも、宇野氏のチャンスは1試合のみだったが、好結果を残した。
本塁打王獲得の1984年は3戦3発「性格的には米国向きだったかもしれない」
1984年の日米野球でも宇野氏は活躍した。この年は1983年にワールドシリーズを制したオリオールズが来日し、10月27日から14試合実施。オリオールズの「3番・遊撃」はア・リーグの1982年新人王、1983年MVPで、後にMLB連続試合出場記録を作るカル・リプケン・ジュニア内野手だった。1984年の日本シリーズを制した広島が最初の5試合を戦い、1勝4敗。その後は前回同様、巨人戦が中心の日本縦断コースだった。 宇野氏が阪神・掛布雅之内野手とともにセ・リーグ本塁打王に輝いた年で、日米野球には3試合に出場。11月4日(甲子園)、11月6日(岡山)は全日本の「7番・遊撃」、11月13日(ナゴヤ球場)は巨中連合の「5番・遊撃」でスタメン出場した。4日の試合では20勝右腕のマイク・ボディッカー投手から本塁打。13日は2本塁打を含む4打数2安打4打点と爆発した。 その時も「ホームランは自信にならなかった」と言うが「マスコミがバットスピードを測ったら、俺の方がオリオールズの主力よりも速かったんだよ。それは“あ、俺って速いんだ”って思ったね」とうなずき、「同じショートで有名なリプケンがいたから通訳を介して質問したよ。何を聞いたかはもう忘れちゃったけどね」と笑った。 宇野氏は日米野球に計4試合出場して5本塁打。「向こうのチームにもこっちの資料は行っていただろうから、ホームラン王の年に打てたのは良かったと思うけどね」と振り返った。当時はメジャーリーグ移籍なんて想像もしていなかったそうだが「俺の性格的には、もしかしたらアメリカ的だったかもしれないね。向こうの野球に慣れちゃったらどうなっていただろうね」とも。時代が違えば“UNO”の挑戦もあったかもしれない。
山口真司 / Shinji Yamaguchi