「この現実を知って欲しい」能登を一歩離れると「普通」に暮らせる罪悪感 現地出身記者が思い返した美しい風景と〝語り部〟の言葉
「能登=被災地」ではないと伝えたい。それが写真家たちの思いだ。 私も同じ気持ちだった。発起人の西條聡(41)さんは「復興後に現地を訪れてほしい」と未来に願いをかける。 ▽思い出した言葉 同じく震度7を観測した東日本大震災から13年。秋田支局からも取材を続けている。今回の能登半島地震で思い返していたことがあった。 昨年4月の入社後、東北に配属された同期の記者と東日本大震災の被災地を見て回った。宮城県南三陸町で語り部として活動する伊藤俊さん(48)が、津波や地震の被災現場を案内してくれた。次の目的地までのバス移動中にふと外を見ると、更地となった場所に茶色の砂の丘が延々と広がっていた。 「ここには昔学校があった」。バスを止めて言う。 「かつての当たり前の日常を、ここに住んでいた僕らが次の世代に語り継いでいくしかない」 失われてしまった風景や出来事について、伊藤さんは時に楽しそうな口調で話してくれた。
1人で訪れていたら、ただの砂の丘としか思えなかっただろう。私がその丘の前に立ち、人々の営みを想像することができたのは、震災前を知る伊藤さんの「語り」があったからだ。 その時、その人だからこそ語ることができる経験や思いをできる限り聞いて残していきたいと感じた。それを能登半島地震の発生でまざまざと思い出した。 「故郷=被災地」ではない。美しい風景やかつての生活を知ってほしい。語り部の方の思いが再び自分の思いと重なる。自分ごととして伝えることができるのは、その土地で根を張り生きてきた人だ。能登出身の記者として、自分に何ができるのか。どんな場所にいたとしても、心に刻まれた能登での生活を忘れずこの先も伝え続けたい。 ※「note」に記者たちの手記を掲載しています。 「記者が見た能登半島地震の被災地、そして今思うこと」