「この現実を知って欲しい」能登を一歩離れると「普通」に暮らせる罪悪感 現地出身記者が思い返した美しい風景と〝語り部〟の言葉
「何かできないか」。そう思い、秋田で情報を集め始めた。現場で取材をする、土地勘のない記者のために通れそうな道路を示した地図も作った。 「携帯がつながらない」「道はがたがた」 帰省していた同級生が、避難所になった母校柳田小学校の様子を教えてくれた。数日間の避難所生活を経て、富山の自宅に戻った同級生は「能登を出ると世界がまるで違う」という。 「普通にお風呂に入れて、ネットがつながって、あの生活は全部夢やったんかなって思う」 能登から一歩外に出れば、「普通の生活」が送れることに気持ちが追い付かない。自分だけ家族を置いて戻ってきたことに罪悪感があると話した。 「世の中にこの現実を伝えてほしい」 思いを託された。 ▽一変した風景、顔合わせ言葉交わすだけで涙 上司から「能登に行ってほしい」と声がかかり、現場に入ったのは1月6日。見慣れた風景は一変していた。 珠洲市役所が面する大通りは緩やかな坂道で、数百メートル先に海が見える。あたりを歩くと、建物は軒並み崩れ、がれきが一帯に散乱していた。海に向かうにつれ、乾いた網、浮き等がアスファルトの地面に横たわる。よく行った商業施設「シーサイド」の入り口にある「新春セール」の赤いのぼりは砂で汚れたままだった。すぐに津波が来たと分かった。
吹奏楽のコンクールがあった「ラポルトすず」は自衛隊の拠点になっていた。友人と写真を撮った駐車場はうねり、割れ目にまで海の波が来ていた。かつての風景と目の前にある現実が重なり、胸が締め付けられた。 能登らしい風景といえば、古い黒瓦の町並みだ。先祖代々家を守ってきた能登の人々の精神性が表れている。海に面した自宅で片付けをしていたトラック運転手の男性(59)の自宅は津波で約20センチ浸水した。「娘にこの家を譲るつもりだった」というが、娘は今金沢にいる。近所の人も「珠洲から離れる」と言っている。海の方を見つめ「俺ももうここには住めんかな」と声を詰まらせた。 元々少子高齢化と人口減少が進んでいた。ゆっくり移ろうはずが、震災で一気に進んでしまうのではないか。家もなく人もいなくなった能登を想像した。 取材の合間に、金沢の親戚の家に避難していた祖母に会いに行った。家を失い、自ら切り盛りする化粧品店の仕事もできない。「大変やね」と声をかけると「生きとっただけよかった。ほやろ」。そう何度も言った。顔を合わせ、言葉を交わすだけで涙が出るほどうれしかった。