「文春砲」で炎上! 国民を裏切り、退陣へと追い込まれた総理大臣・田中角栄の「ヤバい財源」とは?
近年は「不世出の天才」として再評価も進み、石破茂首相も「政治の師」として仰いでいるという田中角栄元首相。しかし74年に選挙で惨敗してからの彼は「金権政治」の代名詞であり、その金脈については「文春砲」も放たれていた。政治と金の問題に注目が集まる今、改めて彼の「炎上」について振り返りたい。 ■選挙で惨敗し、金脈にメスを入れられることに 昭和49年(1974年)、首相(二期目)を務めていた田中角栄は、夏の参院選挙で惨めな敗北を経験しています。 田中は豊富な資金を背景に、自分に関わる社会のあらゆる層に経済的恩恵を与え、支持者を増やしました。金と支持者が田中の最大の防御壁だったのですが、選挙敗北をきっかけに、彼の権力基盤である金脈・人脈にメスが入れられることになったのです。 この当時、アメリカの雑誌「ニューズウィーク」に「貧しい田舎の少年がどうやって金満家の現職総理になったか」という内容の記事が載せられました。これを目にした「週刊文春」編集部は、かつて田中が自民党総裁選で当選するべく1000万ドル~1600万ドルを使ったという記事内の「噂」の実地検証に乗り出します。1ドル=300円前後の時代ですから、現在なら3億円~4億8000万円という巨額の出費でした。 田中の選挙費用が具体的にどのように支出されたかまでは不明だったものの、彼が800万ドル(2.4億円)相当の土地など莫大な私財を蓄えていることが判明しました。「土地ころがし」こそが田中の財源だったのです。 ■敵対派閥の代議士に、入院見舞いとして100万円以上を渡した 田中の金脈に大胆なメスを入れた記事が掲載された「週刊文春」(昭和49年11月号)は大好評で、またたく間に売り切れました。なぜ田中首相はそこまで金持ちなのか――これまで知りたくても、まともに明らかにはされなかった問題に、世間の好奇心の目が一斉に向けられたのです。 田中は敵対派閥のライバル代議士が入院したときでさえ、多忙なスケジュールの合間を縫って5回も見舞いに行き、その都度、100万円以上の札束が入った分厚い封筒を置いていったそうです。しかも「これは何も意味のあるカネではない。あんたの才能を尊敬し、一日も早い回復を祈っているからだ」などと言って、ライバルの心さえ誑(たら)しこんでしまったそうです。 ■立花隆による「文春砲」と「ロッキード事件」で大炎上 自分の人心掌握術に自信がある田中は、「俺は法律に触れるような悪いことはしていないよ。いったん騒ぎが起こっても、人の噂も七十五日だ。いずれは納まる(片岡憲男『田中角栄邸 書生日記』)」と、「文春砲」を浴びた後も楽観的でした。 しかし――敏腕ジャーナリスト・立花隆による「文春」の記事『田中角栄研究・その金脈と人脈』は、田中の側近を称する匿名の人物からの裏切りの告白をまとめたような生易しいシロモノではありませんでした。 国会図書館所蔵の、積めば5メートルにもなるような資料の山を一ヶ月以上かけて分析する冷徹な手段で、田中とカネの関係を明らかにした労作です。この記事によって田中は国会でも散々いたぶられ、その後も想定外のダメージをジワジワとくらい続けることになります。 一介の商売人ならともかく、一国の総理大臣である田中が、盛大な土地ころがしを通じて巨万の富を蓄えたという事実は庶民には不適切としか思えません。また当時、上昇中だった地価に苦しめられている彼ら一般人に「地価抑制を試みている」という田中の説明などはウソにしか聞こえません。すべては国民への「裏切り」としか映らなくなったのです。 ■ロッキード事件後も「影の首相」として動き続けるも… それでも法律と税金のスペシャリストを自負する田中は、自分が「合法的」に取得した土地を転売して何が悪い!という姿勢を貫きました。並の炎上など、田中のような男には効かないようです。 ところが、田中がついに大炎上の業火につつまれたのが、1987年(昭和62年)の「ロッキード事件」でした。田中自身は、「日本進出をもくろむアメリカの航空会社から賄賂を受け取っていた」とする検察側の主張を全面否定しましたが、総理退陣に追い込まれてしまいます。 総理を辞職し、昭和58年(1983年)10月12日に東京地裁で有罪判決(懲役4年、追徴金5億円)を下された後でさえも田中は汚職を徹底否定し、表では自民党の一議員として、裏では「影の首相」と呼ばれ、権力のナタをふるい続けたのでした。 しかし、さすがの田中も病には勝てず、昭和60年(1985年)、脳梗塞を発症したことをきっかけに議員を辞職。再起をはかりながらも平成5年(1993年)、「ロッキード事件」に関する裁判の最終判決が降りる前に75歳の生涯を閉じています。
堀江宏樹