紫式部は、藤原道長の愛人だった? 日記にみる「男女関係をしのばせる」やり取り
大河ドラマ『光る君へ』では、紫式部と藤原道長はたがいに惹かれ合う関係で、中宮・彰子の女房たちも二人の関係を怪しむようになる。実際、史実ではどうだったのだろうか。著述家の古川順弘氏が解説しよう。 【写真】紫式部が生きた平安時代の寝殿造庭園を再現した公園 ※本稿は、古川順弘著『紫式部と源氏物語の謎55』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです
式部をからかった道長
「紫式部と藤原道長は、愛人関係にあったのでは」というのはよく聞かれる話である。 まず式部と道長の、基本的な関係を改めて整理しておこう。 式部が、道長の長女で一条天皇の中宮であった彰子のもとに女房として出仕するようになったのは、寛弘2年(1005)または3年(1006)の12月頃のこととされている。当時一条天皇は26、7歳、彰子は18、9歳で、式部は36、7歳であった(式部の生年を970年とする説に立った場合)。 なぜ式部は彰子の女房となったのか。この点については『紫式部日記』は何ら触れていないので、さまざまに推測されている。式部の文名を耳にした道長が彰子の教育係として彼女をスカウトした、というのもそうした推測にもとづく説の一つである。その当否はともかく、実質的には、道長が式部の雇用主のような立場にあったことは事実であろう。 娘三人を天皇に入内させて摂関政治の全盛期を築き、結果的に三天皇の外祖父となった道長に対しては、老獪な政治家というイメージも強いかもしれない。しかし彼は広く書物を収集した教養人でもあり、詩歌の才能もあって度々会を催している。決して、文芸に理解のない無粋な人物ではなかった。 この二人が男女の関係にあったとしばしば噂されてきたのは、『紫式部日記』にそのことをしのばせるような記述が、これみよがしに書かれているからである。 その記述の一つは、消息体記事(手紙のような文体で書かれた箇所)が終わってから現れる、年月日不詳の土御門殿内の仏堂での法会の記事(寛弘5年5月22日条とする説、寛弘6年9月11日条とする説などがある)の、あとに続く記事である。 そのとき、彰子は里第、すなわち父道長が住む京極の土御門殿に退っていて、式部もこれに従い、邸内に部屋を与えられて住んでいた。部屋とは言っても、渡殿(寝殿と殿舎をつなぐ渡り廊下)に簡単な仕切りを設けることで即成された「局」である。 そしてこのとき、場所は彰子がいた東の対と思われるが、『源氏物語』が彰子の前に置かれているのを見た道長(当時40代前半)が、こんな歌を梅の実の下に敷かれていた紙に書き、彰子に侍っていた式部に渡した。 「すきものと名にし立てれば見る人の をらで過ぐるはあらじとぞ思ふ」 「色好みの女という評判が立っているのだから、あなたを見て口説こうとしない男はいるまい」というような意味である。『源氏物語』が男女の色恋を描いたものであることを知っていたので、作者である式部にからかいまじりの言葉を掛けたわけだ。目の前にある梅=「酸き物」を「好き物」に掛けているところがしゃれている。 これに対して、式部は「人にまだをられぬものを誰かこの すきものぞとは口ならしけむ」と、つまり「まだ口説かれたこともありませんのに、誰が色好みなどという評判を立てたのでしょうか」とやり返している。 この程度なら、大人の男女が戯れに気のきいたやりとりをしたまでで、とりたてて艶聞が立つようなことでもないだろう。