紫式部は、藤原道長の愛人だった? 日記にみる「男女関係をしのばせる」やり取り
式部のことを「道長妾」と表現した中世の系図
ところが、この記事のすぐあとに、相手の男性の名は挙げられていないものの、アバンチュール風の挿話がはじまるのだ。 式部が夜、渡殿の局で寝ていると、誰かが戸を叩く。恐くてじっと身をひそめているうちに夜が明けてくるが、すると相手が「夜もすがら水鶏(くひな)よりけになくなくぞ まきの戸口にたたきわびつる」と詠み掛けてきた。水鶏の雄は繁殖期になると夜、戸を叩くような鳴き声を立てるが、一晩中待ちぼうけを食わされたわびしさをそれにたとえたのである。 そこで式部はこう返したという。 「ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑ あけてはいかにくやしからまし」 「尋常ではない戸の叩き方でしたが、戸を開けたら、きっと後悔することになったでしょうよ」という感じで、男を拒否することを言外にほのめかしている。 文脈からすれば、このとき式部に懸想してきた男とは道長としか解しようがなく、事実、従来そう解されてきた。道長が式部の同僚である彰子の女房(女房名は大納言)を妾(しょう)としたことは知られているので、そこから推しても、彼が式部に手を出そうとしたことは考えられないことではない。だとすると、式部は、当代一の権勢家の求愛を巧みにかわしたということになる。 ところが、この一連の記事から「いや、藤壺が光源氏に対してそうだったように、式部は道長を拒み通すことができなかったのではないか」などと勘繰る向きもある。 この見立ての傍証となっているのが、中世編纂の諸家系図集成『尊卑分脈』所収の、藤原良門孫系図に現れる紫式部の名の下に「御堂関白道長妾云々」と書かれてあることだ(ここでの「妾」は、必ずしも「愛人」「情人」というニュアンスではなく、「正妻ではない妻」というニュアンスである可能性もあることに注意したい)。 式部と道長が男女の関係にあったかどうかについては賛否両論あり、『尊卑分脈』に見える「道長妾」という記載を信頼する立場もあれば、「云々」と続くので噂レベルの伝承にすぎないとする立場もある。『紫式部日記』の史料としての信頼度がいま一つであることを踏まえれば、渡殿での一夜の出来事などは、できすぎた話であるように思えなくもない。話を盛っている部分もあるのではないだろうか。 とはいえ、道長が比較的歳の近い式部に親近感を抱いていたことは、まず間違いのないところだろう。そして、まだ第一部か第二部あたりまでしか書かれていなかったかもしれないが、『源氏物語』に目を通して、式部の文才に舌を巻いたであろうことも間違いあるまい。 では、式部は道長のことをどう思っていたのだろうか。 『紫式部日記』で印象的なのは、道長が人間味あふれる人物として活写されていることだ。彰子の生んだ若宮(後の後一条天皇)におしっこをひっかけられても相好を崩してあやし、誕生50日の祝いの宴では上機嫌で酔い痴れる。著者の細やかな筆致に、道長への過剰な好意のようなものが感じられてしまうのは、気のせいだろうか。 そう思うと、今度は「道長に好意的な女性が、アンチ藤原氏のメッセージを放つ長編物語の作者たりえるだろうか」という疑問も生じてくる。 もっとも、『紫式部日記』執筆の依頼主が、彰子の皇子出産の典雅な記録を求める道長だったとしたら、記述が道長に好意的であるのは至極当然のことなのだろうが。
古川順弘(文筆家)