「第2回大阪万博」が盛り上がらないのは前回のアポロ月着陸を超える科学技術上の快挙がないから~「人類の進歩と調和」は実現されたのか
アポロ月着陸と「科学万能時代」
昭和30年代生まれの私以上の世代の読者であれば、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)のテーマソングである「世界の国からこんにちは」をよく覚えているであろう。 【写真】大阪万博が悲惨になった理由はこれだ 三波春夫の大ヒット曲として知られているが、その他に坂本九、吉永小百合、山本リンダ、叶修二、弘田三枝子、西郷輝彦・倍賞美津子、ボニージャックスによっても歌われ、8社のレコード会社の競作であった。その合計売上げは300万枚以上(そのうち三波春夫は140万枚)とのことだ。 この歌を聞くと「世界は一つ」という言葉が、「偽善の響き」を感じさせずに日本中に広がっていた時代を懐かしく思い出す。 当時の日本では「世界」のことがあまりよく知られておらず、美辞麗句で飾られた「世界」の「仲間と一緒に発展する」という未来像に誰も疑問を抱いていなかったといえよう。 だが、5月20日公開「ガザ反戦運動はベトナム反戦運動のようになるか? 追い込まれるネタニヤフとバイデン」で触れた「ベトナム反戦運動」が、1960年代後半から、70年代前半にかけて起こっている。また、1968年の「ソンミ村虐殺事件」はすでに世に知られていた。 第2次世界大戦終結時に始まり、1950年勃発の朝鮮戦争によって本格化した「東西冷戦」の真っただ中に開催されたのが1970年の「第1回大阪万博」なのである。 54年前、小学生=「20世紀少年」であった私は、熱気にあふれた万博会場に何度も足を運んだ。当時人気を二分していたパビリオンは「アメリカ館」と「ソ連館」の二つであった。 どちらも長蛇の列であったが、アメリカ館の目玉は、万博開催の前年の1969年にアポロ11号の月面着陸という快挙によって手に入れた「月の石」であった。「第1回大阪万博」の熱気は、月面着陸という「人類の科学技術における快挙」にも後推しされていたと言えるであろう。 一方、一時期は「スプートニクショック」を米国に与えたソ連だが、ソ連館には「月の石」のような目玉は無かった。しかし当時、アメリカ館に匹敵する人気があったのだ。 東西冷戦のど真ん中であり、ベトナムにおいて「代理戦争」が激しく行われる中で、米国とソ連という両陣営を代表する国が共に大阪万博に出展し「平和的に競い合った」のは、素晴らしいことであった。それだけでも、(第1回)大阪万博を開催する意義があったのではないだろうか。