オコチャ、カヌ、ババヤロ…“スーパーイーグルス”は天高く舞っていた。国民が血を流す裏側での悲痛な戦い
独裁政治による衝突、ピッチ外での暴動、宗教テロ、民族対立……。いまなお様々な争いや暴力と常に隣り合わせのなか、それでもアフリカの地でサッカーは愛され続けている。われわれにとって信じがたい非日常がはびこるこの大地で、サッカーが担う重要な役割とは? 本稿では、自身も赤道ギニアの代表選手として活躍し、現在はサッカージャーナリストとして活動する著者が書き上げた書籍『不屈の魂 アフリカとサッカー』の抜粋を通して、アフリカにおいて単なるスポーツの枠に収まらないサッカーの存在意義をひも解く。今回はナイジェリア代表の世界の舞台での躍進と、テロの標的になった国民が血を流す裏側で胸を張って戦った“スーパーイーグルス”の姿について。 (文=アルベルト・エジョゴ=ウォノ、訳=江間慎一郎/山路琢也、写真=アフロスポーツ)
DNAに刻まれた遺伝子によるナイジェリア人の優越性
ナイジェリアの人口はおよそ2億人。アフリカでもっとも人口が多い国だ。多様な文化、多数の民族、イスラム教とキリスト教に分かれた双頭の宗教、いまだに塞がらない過去の傷口。 これらの事情により、このアフリカの大国を支配することは非常に複雑で困難だ。1960年まで続いたイギリス植民地時代に地下資源の石油と天然ガスが主要財源になることがわかったが、それが原因で権力争いが生じ、深く根を張って根絶が困難な汚職を助長し続けている。 ナイジェリア人のDNAに刻まれた遺伝子のおかげで体格に恵まれているため、スポーツはいつも国の誇りの大きな源泉であり続けてきた。ナイジェリアのスポーツ選手は、生まれついての爆発力、苦痛に対する並外れた抵抗力、豊富な運動量を可能にする筋肉質な体に恵まれ、いつも抜きんでた活躍をしてきた。 サッカーでは、ナイジェリアはこの優越性を1990年代半ばまで示すことができなかった。 1980年に開催国となったアフリカネーションズカップ(CAN)を除いて、隣国のザイールやカメルーン、ガーナ、コートジボワールに対して優位に立てなかったし、ましてや北アフリカのライバルたちに対しては目も当てられない状況だった。しかし“スーパーイーグルス”の黄金時代をこじ開けることになるユース年代の選手権が開催された。 それは1993年に日本で開催されたFIFA U-17世界選手権だ。そこに現れたナイジェリア代表は才能ある選手にあふれ、名誉挽回の意欲に燃えたチームだった。質の高い選手としてディフェンダーのセレスティン・ババヤロ、ミッドフィルダーのウィルソン・オルマ、フォワードのヌワンコ・カヌを擁し、同選手権では最初から最後まで他のチームを圧倒し、決勝戦ではガーナを粉砕した。そして、大きな勝利を繰り返してサッカー界の頂点に立ちたいと願うようになった。 このことは何か大きなものに育つ種となり、ナイジェリアサッカーのもっとも輝かしい時代を創出することとなった。 世界を制覇したいと願う若者たちのチームに年上の選手らは刺激を受けた。翌1994年のCANでは、ナイジェリア代表はチュニジアの地で威信を見せつけ優勝を果たした。この大会で思い出されるのは激しい闘志で得点を重ねた、今は亡き“カドゥナのバッファロー”ことラシディ・イエキニだ。このチームはアフリカ史上最高の代表チームのひとつに成長する基盤があり、5年間で世界の強豪に仲間入りした。“王子様”ペーター・ルファイがゴールを守り、オーガスティン・“ジェイジェイ”・オコチャはボールを足に縫いつけたかのようにコントロールしながら堂々とした態度で試合を支配し、敵陣ではフィニディ・ジョージが馬のように駆け回り、ダニエル・アモカチとラシディ・イエキニがハンマーのようにシュートを繰り返す。“スーパーイーグルス”は天高く舞っていた。 次の舞台は同じ年の夏に米国で開催されたワールドカップだ。この大会で、ナイジェリアはすでに黒い大陸で声を限りに叫んでいたことを、世界相手に示し始めた。それは、世界の強豪と互角に張り合えるだけの実力を身につけたということだ。グループリーグでギリシャとブルガリアを下してベスト16に進出したのだ。そこで待っていたのは勝利に飢えたイタリアだった。延長戦でPKを献上し、ナイジェリアは準々決勝に進むことなく敗退した。