レバノン人が語る、イスラエルの攻撃にさらされるレバノンの日常
■ 「ディアスポラ」として戦争の中を生きる日々 私はレバノンのキリスト教徒マロン派の家庭に生まれ育ちました。私にとってレバノンは豊かさの象徴です。オリーブの木々に始まる、周囲を囲む豊かな自然。私は地中海の海岸近くで育ったので、海は時間と空間の基準点でもあります。 人類学者、文筆家として活動していますが、ポールダンスをするので「ポール・ティシャン ‘pole-itician’」 (ポールダンサーとポリティシャン=政治に強く関心を寄せる者を掛け合わせた造語)を称しています。 政治的活動家としてアート表現もしており、現在もロンドンのアートセンター、ベスナルグリーンのRich Mixで行われている「Viva・Viva パレスチナ」展に「レバノンを巡るロード・トリップ」というポストカードを使った作品で参加しています。芸術は紛争解決の一つの手段だと信じています。 母国語はアラブ語ですが、フランス語と英語が話せ、平和のための活動の中でスペイン語も使えるようになりました。レバノン人は他国語を話せるようになる必要があります。国境が厳格なので、言語がパスポート代わりなのです。それは思考のパスポート。言語はあらゆる世界の思考にアクセスしてくれます。 現在パリに住んでいますが、ここにはレバノンとは違う景色、生活があります。そして同時に、私は戦争の中を生きています。ディアスポラ(離散民、移民)として、私の中で不協和音が響き続ける日々を送っています。
■ 19時45分:今年の最初のベイルートの爆撃 2024年7月30日、私がパリからロンドンを経由しレバノンに戻った2日後のこと。父に電話を入れると、すぐ電話に出た父は落ち着いた様子で言いました。 「続けなさい、続けなさい。大したことないじゃない、何でもない」。私は震えながら「中止よ。ダンスレッスンはもう中止」と繰り返しましたが、父は聞いていませんでした。父は幾度もの経験で、爆弾は的を定めて落とされていたので次の心配はない、いつものことだ、と思ったようです。 ベイルート南郊外、ハレト・レイク地区へのイスラエルの空爆は、私がいたポールダンススタジオから車で15分の場所でした。レッスンを一緒にしていた一人の女性の電話が鳴り、彼女はそれを受けました。そして、すくっと立ち上がると、震えて言ったのです。「私の町に爆弾が落ちたわ」と。 彼女は自分の荷物のある場所まで震えながら歩いていき、いつもの動作でスカーフを頭に巻いて、丁寧に布の形を整えました。私も他のダンサーたちも、思いやりと連帯心で彼女の周りに集まりました。「送りましょうか」とコーチが尋ねましたが、彼女は「大丈夫です」と答えて、「では、行きますね」と続けました。 スクールの事務員が慌ててスタジオに走ってきて、「レッスンは中止です! 帰宅してください! けれど、みなさん、どうかお気をつけて」と私たちに言いました。 その夜、私は戦争による不安な日常に向かって生きるだろうことを理解しました。そして、このように普通に生きる私たちの、人間としての日常を揺さぶる現実など、国境を越えた世界の向こう側に知られることはないだろうとも。