リヴァプール元主将が語る30年ぶりのリーグ制覇。「僕がトロフィーを空高く掲げ、チームが勝利の雄叫びを上げた」
ユルゲンは主将をあまり重視していない。少なくとも…
また僕のいつもの癖が出ていた。リーダーにはなりたがるが、スポットライトを浴びるのは心地よくない。この優勝にはしっかりと貢献している。その点は心配していなかった。だがいつものように、貢献はしたが、こうして特別な役割を与えられるほどではないと考えてしまった。昔ながらの感覚が湧いてくる。僕がこれをもたらしたわけじゃない、と。テニスやゴルフのような個人スポーツならば問題ない。だがサッカーはチームでするものだ。トロフィーを勝ち取るのはチームであって、個人ではない。これはみんなのものだ。みんなが同じように身を捧げてきた。僕はただ、優勝したチームの主将だったにすぎない。歴史に残るのはこのチームであって、僕ではない。誰からも賞賛されるが、僕は納得していなかった。 ユルゲンは主将をあまり重視していない。少なくとも、イングランドに来たときはそうだった。ドイツには、最も長く在籍している選手が主将になるという文化がある。だからイギリス人のような、主将に対する思い入れはなかった。だがしだいに、その文化の相違を理解するようになっていったのだろう。 リヴァプールには偉大な主将の系譜があった。このクラブでは、主将は特別な存在だ。そして、主将になることを望んだのは僕自身だが、仲間を導き、助けたいと思っただけで、特別な存在になろうと思ったわけではない。 優勝したという事実、このチームの一員であること、そしてクラブチームとして最高峰の大会で優勝し、敬意を勝ち得たことだけで、僕にとっては十分な栄誉だ。それ以上は求めていなかった。同じくらいチームを引っ張っているミリーがトロフィーを受けとってはいけない理由などないはずだ。身をもって範を示し、ほかの選手たちの力を引き出すこと、そうしたチームの文化を支えるうえで、その働きは僕に劣らなかった。 フィルジル(ファン・ダイク)も、ロボ(アンディ・ロバートソン)もそうだ。チームにはたくさんのリーダーがいる。それは成功するチームには欠かせないものだ。そして得がたいものでもある。あのときユルゲン・クロップに出会っていなかったら、僕は選手としても人間としても、主将としても、いまのようにはなっていなかっただろう。彼は僕が成長し、そうした役割をこなせるようになるための力添えをしてくれた。彼こそトロフィーを掲げるにふさわしいのではないか。この優勝は彼がいたからこそ、また仲間たちがいたからこそ達成できたのだ。 僕がいたから、ではなく。