世界的数学者も生み出した、60年以上続く学力コンテストの凄み
「大学入試の問題と学コンの問題はやはり違います。入試問題は制限時間内に解けるように設計されているもの。しかし学コンは時間無制限ですから。私は学コンを通じてコツコツと粘り強く考えていく力がつきました。それは後の研究生活にも役立ちました」 京都大学進学後、天才ぶりは周囲から一目置かれていく。しかしそんな森さんでさえ、学問の道から逃げだそうとしたことがある。大学院入試で学科試験のあと、名古屋の実家に帰ってしまったのだ。翌日の面接を受けないと不合格になる。だが指導教授が森さんの異変を察知し、森さんの母親にすぐ京都に戻るよう説得を依頼していた。名古屋に着いた足で京都にとんぼ返りさせられて、翌日の面接に間に合った。なぜ逃げようとしたのか。 「研究の数学とは解答があるのかないのかわからない世界です。それまでの、解答が用意されていた数学とは違う。そんな研究生活で自分が本当にやっていけるか、急に不安にかられたんですよ」 あてのない航海のような研究の世界に漕ぎ出て、ようやくたどり着いたのが1988年。8年越しで取り組んでいた「3次元代数多様体における極小モデルの存在証明」を完成させた。この成果が評価され、フィールズ賞を受ける。数学に基づく、コンピュータやAI技術がいたるところに存在する現代では「数学がなんの役に立つのか」という問いかけはもはや過去のものだが、森さんは自身のこの成果について「なにかの役に立ったという話は聞いてませんね」と笑みを浮かべる。
「役に立つ研究」とはなにか
「私の研究はすぐ社会の役に立つものではないけれど、役に立つ研究をしている人のベース、川上のところにあります。役に立つための研究は、応用の現場に応じて刻々と状況が変わるし、研究自体がすぐ無意味になってしまうこともある。そういうときに川上、基礎の研究がしっかり身に付いていれば、そこに立ち返ってまたすぐ役に立つ研究が始められます」 森さんは講演ではよく「フーリエ変換」の話を紹介するそうだ。19世紀のフランスの数学者によって研究されたこの理論は、現代では医療検査機器のMRIなどに広く応用されて役立っている。 「私の研究も、いつか人の役に立つと信じています。でも取り組んでいるときは役に立つとか考えず、目の前の数学に夢中になります。それが数学者としての自分の立ち位置です」 現在、学術研究とはなにかという議論がされている。「すぐ役に立つ」研究しか、価値がないのだろうか。そもそも「役に立つ」とはなんだろう。どのような研究であれ、真理がひとつ明かされればそれは人類全体の知が一歩前進したことであり、その時点ですでにその研究は「役に立っている」のではないだろうか。 「学力コンテスト」は数学の魅力を伝え、ときには後進を育てる側に人を招き、ときには好きを本物にして研究者に至らせる。日本の科学研究の川上の川上にいる。 --- 神田憲行(かんだ・のりゆき) 1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業。大学卒業後、ジャーナリストの故・黒田清氏の事務所に所属。独立後、ノンフィクションライターとして現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』『「謎」の進学校 麻布の教え』、最新刊は将棋の森信雄一門をテーマにした『一門』(朝日新聞出版)。