いじめを克服した三刀流サーファー・井上鷹「嫌だったけど、伝えて誰かの未来が開くなら」
転校をきっかけにいじめに発展。「大人は信用できない、嫌いだった」過去
宮崎県で2000年に生まれた井上が、転校先でいじめに遭ったのは、小学校2年生の時。引っ越した先で大雨が降り、土石流もあって家の中のさまざまなものが流された。その「もともとは自分たちのものだったゴミ」を、泥の下などから集めていたら、小さな村の中で目立ち“よそもののゴミ拾っているよくわかんないやつ”と、学校で言われるようになった。 いじめの中心人物だった子どもの親が地元の有力者だったこともあり、周りも見て見ぬふりだったという。学校側の対応も望んだものではなく、先生に「注意してほしい」と言っても無視されるなど状況は悪化。兄も「学校に行きたくない」と言い出し、学校側と話し合ったが当時の校長から「さよなら」と言われ、学校には行かなくなった。 中学校でも状況は改善されなかった。家族で「そういう学校には行きません」と主張したことで、通学はせず、母が少し立ち寄って教科書を受け取る程度になる。結果的に「中学校は敷地に入ったこともないです。一度も行かずに卒業しました」と言うように、卒業証書も郵送で届けられた。 上記は本人の主張であり、周りにもそれぞれ都合があったかもしれない。ただ、井上が「大人は信用できない、嫌いだった」と感じるようになったのも、自然な流れと言える。
偏見なく評価してもらえる居心地のいい場所
転機が訪れたのは、11歳の夏だ。ビーチクリーン(海岸の掃除)をしていた中で、一つのボディボードを見つける。たまたま使える状態だったためサーフィンを初めたが、最初はボディボードとサーフィンの違いも知らず、腹で乗るボディボードに立って乗ろうとしていた。それを見た大人のサーファーが「それは立って乗るものじゃないよ」と、サーフボードを貸してくれた。 井上は、そこで初めてサーフィンの楽しさを知る。「サーフィンは下が動いて自分も動く、他にあまりない競技特性がある。貸してくださった方に、その楽しさを伝えたら、いらなくなったボードをくださったんです」。その時に井上は、思ったそうだ。 「学校に行けなくて、対応してくれなかった先生もいて、大人は嫌いだったんです。でも、優しい方もいるんだ、『この競技をもっと知ってみたい』と思って、週末はサーフィンをするようになりました」 その後、「いろんな方に声かけていただいて、褒められてうれしかった」という純粋な動機が彼を支える。自分に可能性を見出した井上は、プロの世界があると聞き、「高校3年間、サーフィンを本格的にやらしてほしい」と母に直談判。母は反対はしたが、期限付きで応援してくれることになり、本人は競技にのめり込んでいく。当然、その成長の途上も簡単なものではなかったが、井上にとって、偏見なく評価してもらえる世界は居心地がよかった。 「結果的に、世界で初の三刀流プロサーファーとなり、アジア記録を次々と塗り替える成績を残せるようになりました。日本の業界でも先輩・後輩のいじめのようなものがエスカレートして、やめたくなった時もありました。でも、海外では世界チャンピオンなどから褒められ、成績関係なく実力を評価していただいた。それがすごくうれしくて、人生のターニングポイントになったんです。アスリートの影響力を、そこで感じました」 「ロサンゼルス五輪でサーフィンのロングボード種目が追加されたら、そこで金メダルを取りたい。追加されなかったとしても、世界一を取ったり、アジア記録を更新し続けることで、影響力を生かしてさまざまな方に希望などを届けられたらと思っています」