ロニーが盟友・柳田真孝に見せた涙。苦戦し思い悩んだ元相棒……しかし日産ワークス所属での勇退は「胸を張っていい」
2024年シーズンをもって、ロニー・クインタレッリがスーパーGTから引退する。ラストレースとなる第5戦(最終戦)鈴鹿を前にしたメディアセッションの席では、かつてクインタレッリと共にGT500タイトルを獲得した柳田真孝も、後方からその様子を見届けていた。 【ギャラリー】スーパーGTを彩った“カルソニックブルー”のマシンたち 現在はTOM'Sに移籍したミハエル・クルムの穴を埋めるように、NISMOで陣営のドライバーたちのアドバイザー的存在となっている柳田。1979年生まれ同士で同学年のクインタレッリとは2011年~2013年の3年間チームメイトであり、MOLAに所属した2011年、2012年には共にGT500連覇を果たした。 クインタレッリとの初めての出会いは約20年前のF3時代まで遡るが、「印象ですか? めっちゃ悪かったですよ(笑)。仙台ハイランドのレースではぶつけてきたし」と語るが、スーパーGTの日産陣営で共闘するようになってから、その関係は深いものになっていく。 「一緒に組むと決まった時から『よろしく』と連絡をくれましたし、2011年のセパンテストも、自分は久々のGT500でミシュランタイヤのこともあまり分かっていなくて悩んでいたのですが、すごく親身になって一緒にやってくれました」 「僕を奮い立たせてくれたのがロニーでした。2011年はロニーにおんぶに抱っこのような状態になってしまいましたが、常に彼のために頑張ろうという気持ちになりましたし、結果を出したいという気持ちがさらに強くなりました」 またクインタレッリのレーシングドライバーとしての強みについて柳田はこう語る。 「どんな時でも速さがありましたし、あとはチームを引っ張っていく力もすごく感じました」 「常に一生懸命なのも彼の強みかもしれないですね。逆境にも強かったですし。苦しい時も諦めず、準備を怠らずに戦い抜いていました。小さなことでも細かくやるし、そこは今いる日産のドライバーの中では一番じゃないですかね」 そんなクインタレッリも、45歳を迎えた2024年シーズンは受難のシーズンとなった。同じくNISMO陣営の3号車から移籍してきた千代勝正がチームを引っ張るファーストドライバーとなり、クインタレッリは「セカンドドライバー(本人談)」という立場に。さらにはタイヤも長年成功を共にしたミシュランからブリヂストンに変わるなど変化の年となっていたが、クインタレッリは予選ペース、そして決勝レースペース共に千代に後れをとる場面が目立っていた。 そこに関してはクインタレッリ本人としても原因が分からず、もどかしい思いをしていたという。そしてシーズン後半も自身のパフォーマンスが上向かなかったことからスーパーGT引退を決断。本人としてはこの決断をしなければいけないことが「ショックだった」と会見でも明かしている。 しかし柳田は、クインタレッリは胸を張るべきだと語る。引退発表をして、引退会見を開いて華々しく去ることができるドライバーが限られているのはもちろんのこと、殊クインタレッリに関しては、日産陣営のエースカーである23号車のドライバーとして引退するのだ。45歳までワークスカーに乗り続けたこと自体も賞賛に値するが、今後サテライトチームに移籍してパフォーマンス不足で迷惑をかけたり、ファンに格好悪い姿を見せたくないというクインタレッリの美学もそこにはあった。 「最初にその(引退の)話を聞いた時は僕もショックでした。彼と車の中で話したんですけど、彼も涙ぐんでいて……涙も出ていたかな」 「『みんなもう僕のことを遅いドライバーだと思っている』だとか……悩みはかなりあったようですが、そんなことないよと。23号車で優勝争いもできてたし、最後まで強くて速くて強いドライバーだし、胸張っていいよ、と言いました」 「23号車で身を引くというのはなかなかできないと思います。僕なんかはこういう会見すらもできない状況ですし。決断するのに勇気がいったかもしれないけど、 僕はすごく……前向きに捉えていいんじゃないかと話しました」 「引き際は難しいですけどね。そこ(決断)には彼のプロフェッショナルな一面があったと思います。最後までプロだったんじゃないかなと、そう思いますね」
戎井健一郎