フィリピン「残留日本人」終戦から80年…無国籍のまま進む高齢化 国籍回復に“壁”も
今年で戦後80年を迎えるが、フィリピンには戦争によって日本人の親と引き裂かれ「無国籍」として生活している人たちがいる。残留日本人の今を取材した。 【画像】困難な日本国籍回復…尽力する弁護士が語る現実
■戦後に待っていた「無国籍」としての人生
フィリピンの首都マニラからプロペラ機とボートで5時間。電気も整備された道路もない小さな島・リナパカン島。ここに「無国籍」としての人生を強制された日本人がいる。 モリネ・リディアさん(84) 「(Q.お父さんの名前は?)カマタ・モリネ」 「(Q.出身は?)オキナワ」 沖縄出身の父と、フィリピン人の母を持つモリネ・エスペランサさん、リディアさん姉妹。戦前、フィリピンには多くの日本人が移り住み、麻の栽培などに携わり、最盛期には3万人にも上った。 現地のフィリピン人と結婚し、家族を持つ人も多くいたという。 しかし、日米開戦と共に日本軍がアメリカの統治下にあったフィリピンに侵攻する。フィリピン人の一部は「抗日ゲリラ」となり日本兵を襲い、日本から来た民間人も憎悪の対象になっていった。 モリネ姉妹の父親は戦死、姉妹の生活は一変した。 モリネ・リディアさん 「親戚は、私に父の名字を名乗らせませんでした。もし日本人の子どもだということが知られたら殺されるから」 日本人であることを隠し生きてきたモリネ姉妹。戦争が終わるも、姉妹を待っていたのは「無国籍」としての人生だった。 当時のフィリピンでは、子どもは父親の国籍に属すると法律で定められていた。しかし、戦時中・戦後の混乱で父子関係を証明する書類などが焼け、また人目を避け離島で暮らしていたため、日本国籍の申請ができず「無国籍」の状態になってしまった残留日本人2世が大勢いたのだ。 モリネ姉妹は、日本国籍を取得したいと願い続けていた。 姉 モリネ・エスペランサさん 「(Q.どうして日本人になりたいんですか?)父が日本人だから。日本人の血が私にも流れているから」
■「日本政府は助けずに」フィリピン残留の苦悩
長年、フィリピン残留日本人の国籍回復に取り組んでいる弁護士がいる。 河合弘之弁護士 「日本名ハルコ。証拠はほとんどバッチリだよね」 河合弘之弁護士らは、フィリピンの残留日本人から集めた証拠を日本の家庭裁判所に提出し、これまで319人の国籍回復を実現してきた。 河合弁護士 「自分のアイデンティティー、国籍ってすごく大事なんですよね。『私を日本人として、祖国よ認めて』という非常に根源的な人間的な要求なんです」 戦争により海外に置き去りにされたケースとして中国残留孤児の問題もあるが、フィリピンのケースとは異なると、河合弁護士は指摘する。 河合弁護士 「中国残留孤児の場合は国策移民みたいなものだったんですけど、フィリピンの場合は完全な民間移民で。国としては救済する責任がない。日本の戦争政策の犠牲者という意味では、両方とも同じなのに扱いが全然違う」 戦後幾度も政治の中で話題には上がるものの、一括救済などの対応はなされず、フィリピンの残留日本人は80年にもわたり放置され続けてきた。 こうした日本政府の対応をフィリピンの残留日本人は、どう思っているのか? 自らもかつては「無国籍」で残留日本人の一括救済を求める活動を続けてきた寺岡カルロスさんは、憤りをあらわにした。 寺岡カルロスさん(94) 「僕らは戦争に巻き込まれて被害者なんですよ。戦争があったからこそ巻き込まれて、大変な目にあった。それを日本政府は助けてくれなかった。何回も言ってお願いしたんだけど。捨てられた日本人なんです。忘れられてしまった。棄民です」 「無国籍」となってしまった残留日本人は、最新の調べでいまだ400人近くいるという。