フィリピン「残留日本人」終戦から80年…無国籍のまま進む高齢化 国籍回復に“壁”も
■国籍回復へ…モリネ姉妹の調査
河合弁護士と共に、残留日本人の国籍回復の支援を行っているNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」の猪俣典弘さん。訪れたのはモリネ姉妹の元だった。 モリネ・リディアさん 「『お父さんは顔の一部しか見えないくらいヒゲが濃かった』と母は話していました。父は漁師で船を持っていた」 幼い時に父を亡くしたモリネ姉妹にとって、母から聞いたわずかな記憶のみが頼りだ。 モリネ・リディアさん 「(Q.お父さんの名前は?)カマタ・モリネ」 「(Q.出身は?)オキナワ」 証言をもとに調査を進めると、戦前、沖縄の「盛根蒲太」という男性がフィリピンに渡ったパスポート記録が見つかった。しかし、猪俣さんによると、それだけでは不十分だという。 猪俣さん 「あとは父子関係を証明するものを彼らが準備しなくてはいけない。これが、まだ時間がかかる。我々がサポートしなくてはいけない」 モリネ姉妹の証言を裏付ける証拠を求め、猪俣さんはパスポート記録の「盛根蒲太」を追い、沖縄で調査を開始した。 まず向かったのは、本籍地に書かれていた場所だ。 猪俣さん 「この辺ですかね、地図的に」 そこは荒れ地が広がっていた。調査を進めると、県立図書館に沖縄の移民に関する資料が、データベース化されていることが分かった。 「盛根蒲太」で検索してみると盛根蒲太という人物が2度、フィリピンに渡っていたことが判明した。目的は漁業。「父親は漁師だった」という姉妹の証言と一致する。 さらに、盛根さんには弟がいて、同じくフィリピンに渡っていたことが分かった。 猪俣さん 「(盛根蒲太さんの)弟の家族が生存していて、大伯父にあたる蒲太さんがフィリピンに渡り、家族を持っていたという証言が得られれば、大きな国籍回復のひとつの証拠になる。親族の証言によって」 その後、盛根さんの弟の孫と連絡がとれ、盛根蒲太さんがフィリピンに渡り、そこで戦死したという証言を得ることができた。 そして去年9月、モリネさん姉妹の証拠が認められ国籍が回復した。 フィリピンにいる姉妹に直接話を聞いた。 モリネ・リディアさん 「(Q.お二人の日本の国籍が回復したと聞きました。今、どんなお気持ちか、教えてもらってもいいですか?)うれしくて、うれしくてたまりません。とてもうれしい。日本人として受け入れられたことに感謝します」 終戦から80年、「無国籍」として生きてくるしかなかった2人は日本に対し、どのような思いを抱いているのか? モリネ・リディアさん 「(Q.ものすごく長い時間がかかりましたが、日本に対しては、どんな思いを抱いてきましたか?)時間はかかったけど、日本政府には大変感謝している。日本の親戚にも会ってみたい」 「(Q.会ったら、どうしたいですか?)ハグしたい。一緒に時間を過ごして、これまでに過ぎた時間の思い出を話したいです」