資本でも宗教でもない。社会起業家が模索する、もう一つの生き方。
そうですね。最初は東日本大震災のときに感じました。当時私は、平日は東京に住みつつ、土日に福島で活動していたのですが、「寄付する人 / される人」という構造を間近に見ながらめちゃくちゃ違和感があったんです。平日に会う東京の人たちはいつも通りの生活をしながら「お金が足りないらしいから寄付しよう」という感覚で寄付している。一方、土日に会う福島の人たちには「お金があればこれができるのに」というギリギリの中で生活をしている人もいれば、寄付金を使って酒を浴びたりパチンコに通っている人もいる。 なんて言うんでしょう......同じ国にいるのに格差のようなものが生まれているのを目の当たりにしたんですよね。寄付する側は「お金を渡したらそれでいい」と思っていて、寄付される側は「もらったお金だから何をしてもいい」と思っていて......という状態が、どうしても納得できませんでした。そもそもどうしてこんなことが起きているのかまで考えられていない。その気持ち悪さを何度も感じたことは、私の今の考え方につながるきっかけにはなっていると思います。 ── その時の違和感が、今のSOLITに繋がっている。 はい。だから「勝手に決めつけない」「助けてあげようとしない」という前提で活動をしようと決めました。誰しもがどちらにもなりうる、すべてがグラデーションであるということを理解して、意思決定し続けたい。 それなので、SOLIT は「可哀想な人のための支援団体」になりたいとは一切思っていないんです。相手がどんな人であったとしても、私たちは変わらず選択肢を出し続ける。あくまで選択するのはあなたである。「あなたが可哀想な存在だから」とソリューションを押し付けることは絶対にしないというのが、私たちのスタンスなんです。
宗教や資本の代わりになるのは「美」かもしれない
── 「助ける人 / 助けられる人」という既存の二項対立は、資本主義では当たり前の構造だったと思います。田中さんはそもそも、西洋の資本主義の「とにかく稼げ、とにかく成長しろ」という価値観に違和感を覚えたとおっしゃっていましたね。その違和感は、どこから来ているのでしょうか? 資本主義は近代に生まれたものですが、その前には宗教が根強くありました。特に一神教が強かったエリアでは「神様が見てくれている」という考え方があり、どんなに苦しい状況にある人でも、それが最後の幸福としてちゃんと残っていたと思うんです。 だけど近代から宗教の代わりに資本主義が広がって、「神様は信じているけれど、資本がないから幸せではない」という人が増えていった。結果、宗教がなくなり、神様の代わりにお金が信じられるようになった。それが今の苦しさの元になっているのだと感じています。 そんな現代において、お金ではない心のよりどころを作ったり、神様の代わりに自分を信じることができたりすればいいんですけど、そこまで強い人は多くない。また、資本主義を変えることも100年単位でも難しい......そこは悩んでいるところですね。 ── 日本は特に無宗教だと言われていますね。だからこそあのような災害が起こったときに、「何かしなくちゃ」と思った先の解決方法が「お金」だけになってしまうのかもしれないなと思いました。 だけどもしそこに「神様」という視点があったら、違う行動になるかもしれない。「神様」が見ているという考え方があれば、そこで思考を止めることはないかもしれない。 田中さんはそんな現状に、お金でもない神様でもない軸を作ろうとされているのではないのかなと感じました。それって一体なんなのだろうなって......。 なんですかね? なんでしょう......。まだ答えがないからやり続けてるって感じはするんですけど......。 ── とてもわかりにくいことですよね。 そうなんです。もう、伝えられないんです(笑)。 ── でもそれがもしできたら、きっとぐっと社会が変わるんだろうなっていうのは、私も感じます。非常に難しいとは思うのですが。 はい、やっぱりすごく難しいことだなと、私も日々思っています。SOLIT自体が私たちの実現したい社会の縮図となるよう、メンバーとも日々いろんなことを話し合うのですが、小さい頃から学校教育で答えのあるものを教え込まれた私達にとって、「あなたはどう思う?」「あなたの意思はどこにあるの?」と聞かれることって、すごくしんどいことなんですよね。問われすぎると苦しくなる人もいますし。 その難しさは小さい単位でも痛感しているので、大きい単位になってくるともっと増えてくるだろうと感じています。 ── 個人的に「多様性を大事にする」社会はとてもいいものだと思うのですが、逆にみんなすごく苦しいだろうとも思うんです。だって宗教がない今、信じるべきもの、よすがにすべきものが明確にはないし、お金以外に意思決定の基準ってどこにあるのだろう?という。それはどのように見つけていくのがいいんでしょうね。 深いため息しか出ないんですけど......(笑)、そうですね、すごく抽象的な言い方をすると「美の追求」だと思っています。 ── 美の追求? 物質やアートとしての美とはまた別の「美」ですね。自分の中にある「これは美しい」という感情にお金が負ける瞬間って、必ずあるじゃないですか。 例えば私の場合おばあちゃんが大好きで、おばあちゃんとハグをした瞬間に感じる温かみこそ「これは数億円かけても絶対に買えない、これだけは欲しい」と思うものなんですが、そういうものの良さをちゃんと繰り返しわかっておくこと、大切にすることの繰り返しな気がしているんですね。