「わきまえない」溌剌としたおばちゃん幽霊が女性の生きづらさを打ち砕く!古典をモチーフにした痛快短編集【書評】
『おばちゃんたちのいるところ』(松田青子/中央公論新社)というタイトルを聞いて、痛快・溌剌・気分が晴れそうなイメージを持った。それは“おばちゃん”というワードの持つイメージから来たものだと思う。完全に個人の主観だが、ずけずけと他者のスペースに入り込み「大丈夫よぉ!」と肩をバシバシ叩いて去っていく。そんなイメージが“おばちゃん”という言葉にはある。私自身おばちゃんとされる年代に差し掛かってもそのイメージは変わらない。私は先に述べたイメージほど無遠慮な人間ではないはずだが、他者から評価されがちだった“女の子”だった時代を経た今、むしろ先に述べたようなメンタリティーを意識的に持ち、“女の子”たちを助けてあげたいとすら思う。
と“おばちゃん”へのイメージを語ってしまったが、この短編集に集うのはおばちゃんではなく幽霊だ。それなのに怖い要素は皆無。日常の中に突然幽霊が現れるおかしみ、そして型にはまらない幽霊たちの行動に翻弄される。 例えば一編目『みがきをかける』では、主人公が脱毛サロンに通い、デパートで総菜を買ってDVDを見ながら食べるという素敵な休日の夜を過ごそうとしていた時に、突然叔母がやって来る。スーパーで買ったような身なりの叔母は関西弁で主人公の急所をずんずん攻撃。堪忍袋の緒が切れた主人公は「おばちゃん死んだやん。一年前」と最初は言えずにいた一言を突きつける。玄関から普通に登場し、主人公の買ってきたおしゃれな惣菜をむしゃむしゃ食べるおばちゃんは、こちらがなんとなく持っていた幽霊のイメージを覆していく。そして主人公はこれまた予想できない方向ではあるが、彼氏にフラれたどん底からこの出来事を機にはい上がっていく。 そう、この作品に出てくる幽霊は決して物悲しく寂しい存在ではない。どこかに縛られることもなく自分の意思で働いたり、思い出の場所で本を読んでいたりする。生前と死後、両方の様子を知る人から「死んだ後の方が生き生きとしている」と思われるほど充実した生活を送っている。そんな幽霊たちに出会った人もまた、みんななんだかんだ前進していく。 本作では『みがきをかける』でおばちゃんが幽霊であることが途中で判明するように、あらゆる情報が後出しされる、もしくは公開されない。語り口調で出てくるのに語り手がどんな人間(もしくは幽霊?)なのか最後まで明確には示されなかったり、愛称で呼ばれている登場者が人なのか幽霊なのか、はたまたそれ以外なのかわからなかったり。想像しながら楽しめるのも本作の魅力だし、実は物語同士、時々とある接点で繋がっているのも嬉しい。 作品全体はポップで読みやすいものの、その中にあるこれまで女性が置かれてきた立場や困難へのまなざしは痛烈。有能な女性が生きづらかった昭和の価値観の中で自分を活かしきれなかった女性が主人公の『クズハの一生』や、シングルマザーの生活を描く『彼女ができること』などでは女性の人生において現れる困難をずばりと書く。かと思えば「我が社は接待のような思考回路が停止したことはしない」という文章を二度登場させる『チーム・更科』など、くすりと笑わせながら批判を織り交ぜたものも。 そんなユーモアの中にメッセージをしっかり感じる作品。最初に抱いた「痛快・溌剌・気分が晴れそう」なイメージはあながち間違いではなかったと感じた。 ちなみに短編それぞれにはモチーフとした作品が。巻末に紹介されているので、ぜひ推理しながら楽しんでください。 文=原智香