なぜ、いまアルファロメオ史上“最も醜い”アルナに脚光が? 日産とのコラボ黒歴史に変化<大矢アキオ ロレンツォの連載コラム 第50回>
最初から罵声
当日は評論家、デザイン専門家そしてコレクターが、アルナに関する自身の研究や知識を披露した。司会を務めた俳優ダヴィデ・ダ・フィデル氏が世界の終末を示すハルマゲドンに掛けて「アルナゲドン!」と紹介したように、イタリア人のアルナに対する反応は当初から冷ややかだった。 83年10月に南部タオルミーナ海岸で企画されたジャーナリスト及び販売店向け向け試乗会では、車両の披露直後「海に捨てろ!」と罵声が飛んだという。エクステリア・デザインをはじめ、その雰囲気が従来のアルファ・ロメオからあまりに乖離していたのである。 「ローンは柔軟。支払い開始は3カ月後。月額27万リラ(当時の換算で約4万円)」といったアピールのあと、「Sei subito Alfista(キミも今すぐアルフィスタ)」で締めるテレビCM戦略は、高級車時代のアルファ・ロメオを知る従来ファンの神経を逆撫でした。「アルナルド」と名づけられたヒョウのマスコットも、既存のブランドイメージからするとあまりに唐突だった。 純粋日本車の製造品質にも到底及ばなかった。最終的にアルナは、アルファ・ロメオがフィアットに買収された1986年に販売を終了。累計生産台数は5万3千台だった。目標の年産6万台には程遠い数字だった。 筆者のマクロ的視点で付け加えるなら、アルナが送り出された時代のイタリアは、国内産業自体が自信を喪失していた時期であった。それを証明する一例は、戦後この国を代表する事務機器ブランド、オリベッティだ。1950-70年代には斬新なデザインのタイプライターや計算機を世に送り出した彼らだが、コンピューターの時代になるとIBMをはじめとする米国企業の猛攻を受けた。その結果、奇しくもアルナと同年である1983年に発売したオリベッティ製パーソナルコンピューターは、日本の京セラのOEMに過ぎなかった。 一般イタリア人ユーザーの日本車に対する認識が今日とは明らかに異なっていたことも忘れてはならないだろう。当時、日本製品といえば、デザイン的にもエンジニアリング的にも欧米製の模倣という印象が流布していた。筆者がイタリアに住み始めた1990年代末でさえ、(実際は登場順が逆であるにもかかわらず)スバルの水平対向4気筒エンジンは、アルファスッド用のコピーであると固く信じている自動車ファンは少なくなかった。 また、イベント会場で筆者が自動車を撮影取材していると、知らない人々から「今度は何をコピーしに来たんだ」とからかわれた。アルナ登場は、それよりも十数年前である。“半分日本”のアルナを見る目にバイアスがかかっていたことは容易に想像できる。不幸な時代に生まれてしまったのである。