「自粛のファシズム」と「修正グローバリズム」 新型コロナウイルス論議の反省と展望
「内閣人事局の改正」と「地方分権による社会改革」
さてコロナ以後の社会について、国内の展望である。 諸外国では現政権の支持率が上がっている国が多いのに対して日本では下がっている。官邸内のギクシャク(官房長官と首相補佐官の対立)もあり「政局だ」という声も聞かれる。この政権は久しぶりの長期政権で、外交などにはそれなりのメリットもあったと思うが、最大の欠点は「モリ・カケ・サクラ・ケンジ」の問題に見るように、内閣(実際には官邸)が人事を握ることによる「官僚モラルの崩壊」であろう。 形式主義、縦割り、前例踏襲などの批判はあったが、諸外国と比べ、日本は官僚モラルの高い国であった。内閣人事局の制度は、官僚主導から政治主導への掛け声によって成立したのであり、元に戻すのはどうかと思うが、少なくとも官僚モラルを取り戻すための制度変更は必要ではないか。私見ではあるが、次の政権はこれが最大のテーマとなるべきだ。景気と財政のバランスも、日銀と財務省の独立性とモラルの問題に還元される。 そして今回注目されたのは、国と比較しての自治体首長の現実対応力である。これも前に書いたが、明治維新が中央集権によって農業社会から工業社会へと跳躍したように、今度は逆に、地方分権によって新しい社会へと跳躍する可能性を考えたい。テレワークやキャッシュレスなど、デジタル・トランスフォーメーションを加速すると同時に、情報社会を越えて生命を基本とする社会への転換を考えることだ。もちろん、これまでのような民主主義のお題目としての地方自治ではなく、たとえ大都市中心であっても、現実の行政力学に沿った、中央政府の力を担保するかたちの地方分権である。
修正グローバリズム
海外に目を向けよう。 ポストコロナの世界において、中国が、今回の医療援助をテコにして、次世代通信規格の5Gスタンダードの攻勢や企業買収を進めることを警戒する論者も多いが、逆に、世界では中国に対する責任追及の声も高まるだろう。とはいえ中国は現在、世界の多くの国の債権者であり、それを背景にした現実的対抗力を発揮するのも当然だ。当面、この中国への「追及力」と中国からの「対抗力」 が拮抗するだろう。 それが米中二大国の対立として進行することは確実だ。そして時間とともに、中国が孤立する可能性もあり、冷戦時代のように世界が二つの陣営に分かれる可能性もあり、アメリカが孤立する可能性もなくはない。そのあいだにあって微妙な舵取りが要求されることはこの国の宿命である。 次にグローバリズムの問題である。これも前に書いたことだが、今回のウイルスは、大量の人の移動というグローバリズムによって拡大した。オーバーツーリズムとも観光公害ともいわれたが、昨今の観光地の人の密集は異常で、その急増ぶりは世界の人口爆発に似た「観光爆発」というべきものであった。 そう考えれば今後、グローバリズムに選別的なブレーキがかかることが予測される。科学、技術、芸術の分野におけるグローバル化はいよいよ進むであろう。金融市場に関しては、アクセルとブレーキの両論が生じるだろう。しかし人間の移動に関してはブレーキがかかるのではないか。高度なビジネスと文化の分野は別として、団体観光、移民、難民といった大量の人の移動には、何らかの規制がかけられる可能性が高い。またサプライチェーン経済による物の移動も国別に制御される方向だろう。 これまで述べてきたように、人類は都市化する動物であるが、都市化には反力がともない、時に過剰と破局の現象が見られる。グローバリズムに過剰現象が生じれば、それを規制する国家と自治体の力が強まるものだ。つまり、かつて過剰な資本主義の欠点を補う修正資本主義が登場したように、過剰なグローバリズムの欠点を補う「修正グローバリズム」が登場する。 そう考えてみれば、内外のさまざまな問題は、コロナ以前から兆候が現れていたことだ。つまり「破局=カタストロフィ」とは、ベールに覆われていた潜在的な矛盾の力学を、一挙に顕在化させることであろう。 いずれにしろ、人類も、また日本も、その底力が試される正念場に置かれていることはまちがいない。しっかりした論壇と、しっかりした政府を求めたい。