「自粛のファシズム」と「修正グローバリズム」 新型コロナウイルス論議の反省と展望
「経済との二者択一」はまちがっている
次にロックアウトあるいは外出禁止に関して、国や自治体の政策責任者から「感染の封じ込めか、経済活動の持続か」という二者択一的なバランス論がよく聞かれた。 しかしこれはおかしい。感染が封じ込められない場合の経済ダメージは途方もなく大きいのだから、「感染を封じ込めて人命も経済もダメージを少なくするか、感染爆発して人命も経済も大ダメージを受けるか」のどちらかというのが正しい議論だろう。3月末から4月初めは、とてもバランスを取るというような状況ではなく、1日も早く緊急事態を宣言し何らかの手を打つべきであった。結果はどうあれ、日本政府の考え方が論理性に欠けることと、そのことによるガバナンス(統治力)の欠如が露呈した。 とはいえ、不要に経済を冷え込ませることは避けなければならない。都市の完全封鎖や外出の絶対禁止ではないかたちで人と人との接触総量を減らすという方策と、ある程度収まれば様子を見ながら緊急事態宣言を解除するのは、正しいと思われる。まずは感染を止める、そして感染拡大と接触総量をコントロールしながら経済を、という順番でなければならない。
自粛のファシズム
次に「外出自粛の要請か、拘束力のある外出禁止か」という議論である。 政府の人間が「強制力のある外出禁止は法的にできない」と発言していたことに違和感があった。国民の命を守ることが民主国家の法の精神に触れるはずはない、と思ったのは僕だけではないのではないか。官僚ならともかく、法文の一字一句にこだわり、法の精神を理解しないのは、本当の(断固たる)政治家とはいえないのではないか。 また常日頃、国家権力に対する個人の自由、報道の自由を主張するジャーナリストが、今回はより強い外出制限を求めるような発言をしていたのはいいが、いざとなると戦前のファシズムをもちだして、政府が強権を発動して私権を制限することには反対だとしていたのも中途半端な態度であった。そもそも、人間の政治的な行動に対する治安維持と、凶悪なウイルスに対する防疫とでは、問題がまったく異なるではないか。この国の現在における「国家権力と人権」の議論の未成熟が、国民の命を危険に晒すことになっていた。 また逆に日本では、自粛要請による曖昧な圧力の方が、ファシズムにつながるのでは、という気がした。第二次世界大戦のときの日本のファシズムは、ドイツやイタリアのような独裁者によるのではなく、社会の上下双方からの家族主義的なファシズムであったというのが丸山眞男などの指摘でもあり、学術的にも常識化した見方である。日本という情緒的一体感のある島国では、権力による「命令のファシズム」より「自粛のファシズム」とでもいうべきものが強く作用するのだ。 現に今回も、自粛警察というような私的制裁が現象化した。日本人の団結力の勝利に酔いしれて、この点を論議しなければ、逆に今後、権力による法的根拠の曖昧なままの社会的締め付けが強まって、禍根を残す。