スタンフォード大の難病解析プロジェクトで活躍、ソニー「プレステ」がギネス記録の偉業に貢献できた理由
■ スタンフォード大の難病解析で「ギネスの偉業」に貢献 ――難病解析のプロジェクトでは、PS3をどのように活用したのでしょうか。 茶谷 当時、PS3の演算性能は一般的なPCの約25倍の速さでした。PS3が1台あればPC25台分の計算処理を肩代わりできるわけです。PS3はその能力を遺憾なく発揮し、プロジェクトの1日の処理量は2倍以上に増え、2007年3月の開始から半年を待たずに1P(ペタ)FLOPS(1秒に1千兆演算)の処理能力に達しました。 この人類史上初の成果が評価されたことで、ギネス記録にスタンフォード大学のプロジェクトが認定され、PS3もその偉業に大きく貢献したと記録されています。 さらに、単に計算するだけでは面白くないので、参加者の場所を地球儀のグラフィックス上で可視化する仕掛けも作りました。これは社会貢献の度合いを可視化したことが評価され、2008年にはグッドデザイン賞の金賞を受賞し、広く話題を呼びました。 ――なぜ、PSはビジネス以外の分野でも功績を残すことができたのでしょうか。 茶谷 最初のきっかけは社員の一人が「面白そうだ」と言い出して、プロトタイプを作って持ってきたことでした。社内でいろいろな議論はありましたが、最終的には「これができるのはプレステ以外にないよね」という結論に至り、プロジェクトが本格スタートしました。 こうした取り組みに挑戦できる土壌があったことで、優秀なエンジニアが活躍できたという側面もあると思います。PSは「多くの人を楽しませたい」「わくわくさせたい」という目的を持った人が集まったことで、常に新たな価値をつくることができたのではないでしょうか。
■ 優秀なエンジニアは「壮大なコンセプト」に魅了されて集まる ――茶谷さんがソニーに入社された当初から「つくれる人」が集まる組織風土があったのでしょうか。 茶谷 私がソニー入社後に配属された開発研究所は、伝説のエンジニアである木原信敏氏が所長を務めており、優秀なエンジニアが次々と育っていました(前編「『人に崩される前に自分で崩す』…プレステを“世界で最も売れた家庭用ゲーム機”に育てたソニーの流儀」を参照)。技術者にとって魅力的な環境だったと思います。 当時、木原氏は人工知能言語のLISPを熱心に勉強されており、その機能を拡張した「木原LISP」を開発するなど、多くのエンジニアを魅了していました。自身で作られたプロダクトを研究所のメンバーに楽しそうに見せている姿が印象的で、「楽しくモノを作れることは幸せなことだ」と強く感じたことを覚えています。 ――著書では、21世紀の産業史を変える人材を多く輩出した企業の例として、米ジェネラル・マジックを紹介しています。多くの才能ある「つくれる人」を集めることができたのはなぜでしょうか。 茶谷 ジェネラル・マジックは、アップルの主要エンジニアが独立して作った会社で、1990年代のシリコンバレーを風靡しました。ソニーやモトローラ、AT&Tなどの有力企業が出資し「世の中にすごいことが起こるかもしれない」という期待を持たせた会社です。 創業からわずか5年で米店頭株式市場(ナスダック)に上場を果たしましたが、2002年には業務を停止し、会社としてはうまくいきませんでした。しかし、同社の取り組みを面白いと思うクリエーティブな人が集まり、一緒に仕事をしながら学び合うことで、優秀な人物を多数輩出しています。 例えば、Androidを開発したアンディ・ルービン、米国オバマ政権のCTOを務めたミーガン・スミス、iPodの発案者トニー・ファデル、AdobeのCTOだったケビン・リンチなど、そうそうたる顔ぶれが並びます。 壮大なコンセプトには、そこに魅了された優秀なエンジニアが集まります。優秀なエンジニアが集まれば、毎日が発見の連続になりますから、そこで起きた化学反応によってエンジニアの技術も磨かれていくのです。