「一つ屋根の下」に作家が二人暮らすと起こること 「大作家同士の結婚生活」吉村昭と津村節子【11/22 いい夫婦】
性格が対極だったことも功を奏し……
〈私は気が短いし、彼女もせっかちである。性格が似ている点が多いだけに……〉(『月夜の記憶』講談社文庫) と互いの性格のことを吉村は書いていて、そういう面はあったのかもしれないが、対極だと思うことが多い。それがかえってよかったのかもしれない。 津村は自身の性格を〈八方美人〉(『書斎と茶の間』毎日新聞社)としている。一方の吉村は、つき合うのは編集者で同業の作家に友達はいなかった。吉村は心配性。津村については、担当編集者が次のような逸話を明かす。 「私が胃がんになったときでした。臆病なので、すっかり落ち込んでしまいました。そのことを津村さんに話したところ、そんなの切っちゃえば平気よ、と。あっけらかんと、そんなことを言う人はいなかった。それで気持ちがすっとラクになりました」 終の棲家となった150坪の土地を買ったときも津村が即決した。即行動し、大胆に決断する。定住を好まない吉村は住居に関心がない。すべて津村の裁量に任され、衝突することはない。 若い頃から津村は家計のやりくりにたけていて、生活力も旺盛だった。吉村が処女短編集『青い骨』を自費出版するときは、郵便貯金通帳を差し出し、山内一豊の妻だなと言わしめている。 土地や住居に関心はないが、吉村も大きな買い物をしている。田野畑村(たのはたむら)の村長に頼まれて岬を一つ買っていた。さらに乳牛のオーナーになってほしいと言われて、血統書付きの牛も買っている。 新潮社から『吉村昭自選作品集』の刊行が決まったとき、吉村が元担当編集者の栗原正哉に宛てた手紙には、二人の性格の違いがあらわれている。 〈昨夜は、快く飲みました。女房は喜んで、家族旅行をしようと言い、なぜあなたは大喜びしないのと言い、売れないと迷惑をかけるので……と答えましたら、あんたという人は……と怒ってしまいました。性分ですからなおりませんが(略)〉(「波」平成22年11月号) 〈人間は土壌に生えるキノコ〉という記述は二人の著書に登場するが、下町の家屋密集地帯で育った吉村は、たえず周囲に気を遣った。一方、長く雪に閉ざされる福井出身の津村は、少々のことでは挫折しない。柳に雪折れなしというように、耐える力と立ち直る力がある。 吉村は次のように述べていたと津村は記す。 〈夫は、私を、純粋な越前(えちぜん)女ではないという。おまえが努力家であるという点は越前の気質を受けついでいるが、理屈が多く、頑固なところは信州の血だというのだ。〉(『女の居場所』集英社文庫) 津村の父は信州出身だった。津村の頑固なところは、負けず嫌いからきているので扱いにくいとつけ加えている。 負けず嫌いの津村が吉村昭という大きな才能と出会い、負けたくないがために努力を重ねた。一方の吉村も一家の主としての重責からひたすら邁進した。文学の上での出会いで、これ以上の相乗効果はなく、その結果どちらも見事に才能を開花させた。 おしどり夫婦と言われた二人を長男の吉村司(つかさ)は次のように見る。 「父がなんで怒っているか、母はわからなかったから、長く一緒にいられたんじゃないでしょうか。原因がわかったら追い詰められますからね。いい意味での鈍感力ですね」 普段の生活で、津村と過ごすことが多い司の妻も、 「つい言い過ぎたりして、ちょっとした諍いになっても、義母は次の瞬間にさっと切り替えられるんです。根に持たないでいてくれるので、とても助かっています。義母の前向きな明るさは、義父と家庭を築く上でも、とても大きかったと思います」 内にため込まず、すさまじいケンカをしたのも、夫婦円満の秘訣だったのだろうか。気持ちをごまかさずにぶつかり合ったからこそ、真のおしどり夫婦になれたのかもしれない。 性格も小説の作風も違う二人だが、つれ添ううちに字まで似てきたと編集者の間では言われていた。 ※『吉村昭と津村節子 波瀾万丈おしどり夫婦』より一部を抜粋、再編集。
デイリー新潮編集部
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