「一つ屋根の下」に作家が二人暮らすと起こること 「大作家同士の結婚生活」吉村昭と津村節子【11/22 いい夫婦】
瀬戸内の秘書の長尾玲子によれば、吉村に電話をすると、 「……目なんですって言うから、私も絶句して、えって言ったら、絞り出すような震える声で、だいぶ間があって、あの人は小説家です。目が見えなくなったら僕はどうしようっておっしゃって、また絶句されてるんですね。泣いてんのかなって感じで」(吉村昭記念文学館 「証言映像(1) 瀬戸内寂聴・津村節子 吉村昭を語る」) 作家にとって目は命でもあり、心配性の吉村がどれほど気を揉んだことだろう。編集者が気遣って小料理屋に誘っても、酒も喉を通らず、早々に自宅に送り届けることになった。 津村は20日間入院したが、大阪に講演に行った日以外、吉村は毎日病院に見舞いに来た。 〈ただ黙って座っているだけでしたが、どんなに心強かったことか。〉と津村は感謝している。 吉村が津村をいちばん心配したのは目の病のとき、そして自分のとき以上に喜んだのが、津村が日本藝術院賞を受賞したときだった。 生活を共にする夫婦として、そして同業の作家同士として。吉村の中には作家と夫が同居し、津村には作家と妻が同居する。吉村の死後も、津村はその狭間で揺れ動いた。 〈夫と思っているといろいろ辛いことばかり思い出すのですが、作家吉村昭はこういう仕事をしていたんだ、ああ、こういう作品を書いていたんだ、というふうに思うようにしています。〉(「小説新潮」平成19年4月号) そのときから数年の時間を経て、津村は作家として吉村の最期を『遍路みち』『紅梅』に描き切った。『遍路みち』(講談社文庫)のあとがきには、 〈今自分に書けるものは、吉村の死について以外になく、もう一度それを再現するつらい仕事になった。漸く押し込めていた吉村のけはいが、濃密に漂い始めたのである。〉 と記し、 〈……『紅梅』を書いて、夫としてあの人が身近に戻ってきたような気がしているのです。〉(『吉村昭が伝えたかったこと』文春文庫) とも語っている。 点滴の管を自らはずすという吉村らしい最期を書けるのは津村しかいなかった。自分のことは3年は書くなと吉村は遺言に記していたので、いずれ書くのは承知だったのだろう。 津村の文壇デビュー作の初期の短編も、作家としての集大成の作品も、共に夫を題材にしたものとなった。 夫婦としての歳月をすべて小説に結実させ、作家として両雄並び立っている。