お家芸がお荷物に「液晶のシャープ」が衰退した真因、国内でのテレビ向け液晶パネル生産ついに撤退
「シャープは、液晶材料をブレンドするところから始めました。そのデータはすべて蓄積されています。だから、材料メーカーさんとも、トライ・アンド・エラーに基づいて議論ができます。単に要求だけを伝えて、それに合う材料をいただくのであれば、どこでもできます。その点、一歩踏み込んだ話ができるのも、秘伝のタレを持っているからでしょう」(町田氏) かつてシャープは、国内テレビ市場で松下電器産業(現パナソニック)、ソニーに続く東芝と「万年3位」の座を競い合ってきた。同社はブラウン管を持っていなかったため、販売したいときに増産できず商機を逃してきた苦い経験から、キーデバイス(基幹部品)の強化に取り組んできた。その結果生まれたのが液晶だった。最終的な目標は、テレビのキーデバイスとして液晶を使い、ブラウン管テレビ時代の雪辱を果たすことだった。
社長に就任して2カ月後の1998年8月、町田氏自らが「シャープは2005年までに、国内で販売するカラーテレビをすべてブラウン管から液晶に置き換える」と宣言し、有言実行となった。テレビがブラウン管から液晶やプラズマなどのフラット・ディスプレイに移りつつある中で、液晶テレビ(国内市場)で断トツ1位に躍り出たのだ。 町田氏は生産の国内回帰を実現した。大画面テレビ用液晶パネルを増産するため、亀山第1工場(三重県亀山市)に加えて、2006年10月に亀山第2工場も稼働した。
その背景には海外事業部長時代の苦い経験があった。プラザ合意(1985年)以降、急激な円高に直面し、日本メーカーは生産拠点を相次いで東南アジアへ移した。その結果、努力しなくても低コストで生産できるようになり、町田氏によれば「その後10年間、(シャープの)生産技術は進化しなかった」と言う。 「液晶テレビの大成功」という果実を手にし、同事業はまだまだいける、いや、まだまだ拡大していかないといけない、と判断したのだろう。そして、町田氏の後継者となり路線を継承した片山幹雄氏は、さらに発展拡大しようとした。社長就任から3カ月後の2007年7月末、片山氏は堺工場の建設を発表した。「蓄積」というシャープの遺伝子からして順当な戦略的意思決定であるように見られた。