もしも音楽が禁止されたなら わたしたちはそれでも曲を奏で続けるのだろうか?
実際に活動が禁止されたカンボジアとサウジアラビアで起こったこと
曲が放送禁止になることはある。そして、音楽を全面的に禁止してきた国もある。 音楽には人々を鼓舞し団結させる力がある。その力は昔から諸刃の剣だった。宗教上や政治上、あるいは道徳上の理由から、現状に異を唱える曲が禁止されるのは珍しくない。 ギャラリー:カンボジアほか20世紀の「大量虐殺」 写真19点 英BBCはセックス・ピストルズの英国国歌と同名曲「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」の放送を拒んだし、米国はビートルズの一部の曲を放送禁止にした。中国はK-POPの世界的影響力を恐れて禁止し、ナチス・ドイツはジャズ音楽を禁止した。1964年から1985年の間、ブラジルの軍事政権は500曲を検閲対象とした。 しかし、禁止が曲だけにとどまらないケースもある。2021年、アフガニスタンで再び政権を握ったタリバンは、音楽禁止を復活させた。だが、こうした規制下にあっても、弾圧に抵抗する音楽の力は、世界のどこであっても失われることはない。 「政府は好きなように音楽を取り締まるかもしれませんが、音楽制作が途絶えることはありません」と、学術誌「Current History」に2023年に掲載された論文「Global Music Politics: Whose Playlist for Troubled Times(世界の音楽政治学:困難な時代のプレイリスト)」の執筆者であるマリアン・フランクリン氏は話す。
突如、音楽が消えた
1975年、急進的な共産主義勢力「クメール・ルージュ」による恐怖支配がカンボジアで始まった。市民は家や財産そして文化を奪われ、知識人や芸術家など政権に盾突く者と見なされると殺された。4年の間に、カンボジアの豊かな文化遺産の大半は、クメール・ルージュによって消された。音楽も例外ではない。 いわゆる「ゼロ年(Year Zero)」以前、1960年代から1970年代前半にかけて、カンボジアは音楽の黄金時代にあった。ダンスフロアは、しゃれたスーツに身を包んだ男性やミニスカート姿の女性であふれかえり、東シナ海に配備された米軍の船から流れてくるロックンロールの影響を受けたサイケデリックな曲に合わせて人々は踊った。 カンボジア人アーティスト、例えばポップスターのシン・シサモットは誰もが知る名前だった。レコードを隠すなどして音楽遺産を守ろうとした人々もいたが、クメール・ルージュ政権下ではこうした音楽文化を守るのはほぼ不可能だった。 「音楽が禁止され、その楽しみが失われると、感情や精神に大きな穴が開いた状態になります」と、エジプトに在住する心理療法士のイハーブ・ユースフ氏は指摘する。 数十年の時を経て、カンボジアは今、失われた音楽遺産を取り戻そうとしている。最近、プノンペンの北東60キロメートルのところに、カンボジア最大の芸術文化センター「The Gong(ザ・ゴング)」がオープンした。最新の録音スタジオや140席のホールを備え、カンボジア音楽を称え、保存や活性化を目指すとともに、伝統的クメール音楽の記録や最先端技術による新人アーティスト支援にも取り組む。 「Kesorrr(ケソール)」の名で知られるシンガーソングライターのロモケソール・リティ氏は、この芸術文化センターで最初にパフォーマンスをしたアーティストの1人だ。西洋音楽を聴いて育った彼女だが、カンボジアの黄金時代を深く知ろうと、創作活動を支援するクリエイティブ・ハブ「Plerng Kob(プラーン・コブ)」や毎年開催する文化フェスティバル「Bonn Phum(ボン・フーム)」の設立に携わった。 「戦後のカンボジアの音楽シーンは、カバー曲とカラオケ歌手がメインでした。今は(オリジナル曲の)ポップやロック、R&B、ヒップホップもあります」と彼女は語る。「自分たちのアイデンティティーを失った時期がありました。私たちはゼロからスタートして、自分たちのサウンドを再び見つけなければなりません」 カンボジアを離れた人々も、カンボジア音楽を世界に向けて発信している。カンボジア系のチャム・ニモル氏がボーカリストを務める米国のバンド「Dengue Fever(デング・フィーバー)」は2023年、1960年代のカンボジア音楽にインスパイアされたアルバム「Ting Mong(ティン・モン)」をリリースした。バンドは欧州や米国で成功を収め、カンボジアのテレビ番組にも出演しており、カンボジアの音楽遺産に対する関心が世界に広がっていることがうかがえる。 バンド結成メンバーの1人であるザック・ホルツマン氏は、カンボジアツアーを行ったときの反響に「驚いた」と話す。「ある男性は感極まった様子で、こう言ってくれました。『カンボジアにはしばらくひどい時期があった。カンボジアには美しい音楽があることを思い出せて、カンボジアの音楽が忘れ去られていないことが分かって、本当に嬉しい』」