【追悼】最後の「生粋の無頼派」福田和也は、いったい何者だったのか 瞬く間に「文壇の寵児」「保守論壇の若きエース」に急成長したが
さらに自らの退路を断つかのように、22歳から29歳までの7年間を、本書の執筆のために院生として、また家業を手伝いながら費やしたと記してもいる。 その後の福田和也は、知られるように瞬く間に文壇の寵児にして、保守論壇の若きエースに急成長する。 江藤淳の引きで慶應義塾大学に赴任したのは、アカデミズムでのキャリアではなく、あくまで評論家としての実績を踏まえてのことだ。 何年か先、私も福田に呼ばれてSFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)で、「現代思想」の講座を非常勤講師として担当することになった。
個人的に、最も親しく顔を合わせていたのは、中沢新一の招聘に失敗して東京大学教授を辞任した西部邁が、1994年に創刊した雑誌『発言者』(その後継誌が『表現者』)の編集委員にともに加わっていた時期である。 しかし彼は、忙しすぎて一向に身を入れて原稿を書こうとせず、その手抜きぶりを諫めつつ、私は彼の悪びれぬプロ意識に感じ入った。 私たちはその頃、西部邁に引き連れられ、修善寺の温泉宿や台湾旅行まで一緒にした。
しかし蜜月は、そう長くは続かなかった。 ■物議を醸した『作家の値うち』 私より先に福田と西部邁の関係が怪しくなった。 事の起こりは、2000年に彼が出した『作家の値うち』(飛鳥新社)という本で、ここで生き馬の目を抜く勢いの福田は、ロバート・パーカーのワインの評価法をヒントに、日本の純文学、エンターテインメントの現代作家を50人ずつ選び、その代表作を100点満点で採点したのだ。 私は密かに、無知な読者を前に、正札を付けた文学作品を売りつけるあざとさに眼を背けただけであった。
しかし西部邁は黙っておられず、その暴挙を陰に陽に批判し始めた。 元の鞘に収まったかに見えたその時に持ち上がった企画が、『文學界』誌上での『論語』をめぐる両者の連続対談である。 詳しい経緯は失念したが、ここでまた一悶着あって、二人は訣別、そのまま単行本化も沙汰止みになった。木村岳雄監修による『論語清談』(草思社)が漸く日の目を見たのは、西部死後の一昨年、2022年のことである。 私のほうはといえば、これまた他愛ない理由で西部邁と訣別することになった。その経緯は、『評伝 西部邁』(毎日新聞出版)に書いたのでここでは触れない。