生後1カ月でダウン症と告げられた娘。「美貴は金の卵、きっとすごい子になる」という実母の言葉に励まされ【体験談】
「美貴は金の卵」。母のその言葉にハッとする。泣くのをやめ、前を向くことに
――美貴さんにダウン症があることを、敦子さんが知ったのはいつですか。 敦子 美貴が生後1カ月になるころ、出産した病院の先生から説明を受けました。美貴が生まれた25年前は、今ほどダウン症が一般には知られていない時代。私も新聞で「ダウン症」という文字を見たな…という記憶がうっすらあるくらいで、知識はまったくなく、「ダウン症って何だろう?」という状態でした。 たしかに生まれてからの1カ月、美貴は泣いて何かを訴えることがほとんどなく、寝てばかりいる赤ちゃんでした。泣かない点では育てやすささえ感じたくらいです。でも、母乳をあまり飲んでくれず、欲しがることも少なく、足の裏をくすぐって起こして飲ませることを続けていたので、つねに「お兄ちゃんたちとは違う」と感じていました でも、まさかダウン症があるなんて思いもしません。普通に生まれてくるのが当たり前だと思っていたんです。 ――美貴さんにダウン症があると知ったあと、どうしましたか。 敦子 今のようにスマホで簡単に情報検索などができない時代です。パソコンや育児書で必死に調べました。そして、治ることのない先天性の疾患であることを知り、これから美貴をどう育てていけばいいのか、目の前が真っ暗になりました。 当時は何も考えられず、息子たちの日々の生活も美貴の育児も、ただ淡々とこなしていました。無条件のかわいさと、そして頭の隅につねにあったのは、育てることの大きな責任。 当時、私たち家族は京都府外に住んでいて、私の実家は京都府にあるので、私の母は近くにはいません。でも電話ではしょっちゅう話をしていて、私がかなり落ち込んでいるのはわかっていたんでしょうね。美貴が生後2カ月のある日、電話で話しているとき、「美貴は金の卵だから大切に育てよう‼️きっとすごい子なるよ。敦子は美貴だけの母親ではなく、お兄ちゃん2人の母親でもあるんだから、泣くのは今日で終わりにしなさいよ」って。 ――お母さんの「金の卵」という言葉には、どのような思いが込められていたのでしょう。 敦子 美貴の出生届を市役所に出しに行ったとき、市内で生まれた6万5000人目の赤ちゃんということで、市役所の方がお祝いをしてくださいました。そのときから母は、「美貴は何かを“持っている子”なのよ」と言っていました。美貴の生きる力や可能性を信じていたんだと思います。私と美貴に対する深い愛情を感じました。 母の言葉に背中を押され、私はようやく心のスイッチを切り替えることができました。
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