米東・古豪の系譜 第3部/3 80年代 模索期 選手に対応力求め /鳥取
<第91回選抜高校野球 センバツ> 米子東が1966年春以来となる甲子園勝利を挙げたのは20年後の86年夏。監督としてチームを率いたのが貫名和久さん(75)=米子市=だ。70年春も挑んだが、一勝の壁は厚かった。「伝統である米東のバント野球は残しつつ、選手たちがプラスアルファの力を出してくれた」と振り返る。 貫名さんは同校の現役時代は2番左翼手で活躍し、61年春の甲子園ではベスト4。大学卒業後は母校に戻ってきた。黄金期を築いた故・岡本利之監督に託される形で68年夏、25歳の若さでチームを引き継いだ。就任2年でセンバツに出場したが、初戦の津久見(大分)戦は0-5で完敗。「走攻守、監督の力を含め全てで相手が一枚上だった」。全国との差を実感した。 72年に境の監督に転じて73、74年のセンバツに連続出場して1勝(74年)も挙げた。それでも母校で勝ち星を挙げられなかった無念さが常に残っていた。 83年、再び米子東の監督に。以前は岡本元監督が提唱する「バント野球」を継承するのにこだわっていた。しかし「金属バットの普及や、力を持った私立校の躍進など時代は大きく変わっており、米東も変わる必要があった」。 選手に求めたのは対応力。例えば3ボール、1ストライクの場面。打者であればエンドランなど作戦が立てやすいが、守る側ならいろんな攻撃パターンを想定する必要がある。彼らの現場感覚を重視しようと、サインはなるべく出さないよう心掛けた。 86年夏の2回戦、東亜学園(西東京)戦の六回裏。0-1と追う展開で、1死一、三塁の好機。打席にはその試合無安打だった5番・谷村直也さん。以前なら迷わずスクイズを指示していたが、対応力を信じた。谷村さんの強振は三塁打となり、聖地に久々の校歌が流れた。 今のチームは以前のようにバントを多用しないが、“選手の自主性”を重視するなど自身の監督時代と通ずる点も。「時代ごとに求められる野球は変わっていくが、(現役選手は)『自ら考える野球』を徹底して状況に柔軟に対応できている」と太鼓判を押す。センバツでは監督時代に成し遂げられなかった2勝、さらに紫紺の優勝旗を持ち帰ってくれることを夢見ている。=つづく ……………………………………………………………………………………………………… ◇米子東の甲子園成績(1980年代) <夏> 年 勝敗と対戦相手 1983 1-2 学法石川(石川)=延長十回。夏は23年ぶりの出場 86 3-1 東亜学園(西東京) 2-7 天理(奈良) 89 0-3 帝京(東東京)=帝京は優勝