ニホンオオカミの謎に迫る中学生研究者・小森日菜子さん
いかに探究心が培われたか
日菜子さんはよちよち歩きの頃から動物が大好きだった。3歳の時、YouTubeがきっかけで絶滅動物に興味を持つようになった日菜子さんを両親が科博に連れて行くと、食い入るように標本と図鑑を見比べ、いつまでもその場を離れたがらなかったそうだ。
科博にも繰り返し通うようになり、そこで常設展示のニホンオオカミ剥製と初めて出会った。
絶滅したとされるニホンオオカミに、今も多くの目撃情報があることを知り、「いるんだったら会ってみたい!」と、小2の夏に自由研究に取り組んだ。
ニホンオオカミとは
ニホンオオカミは、かつて本州・四国・九州に広く生息していたが、1905年に奈良で捕獲されたのを最後に絶滅したとされている。 実は「ニホンオオカミ」という和名が広まったのは戦後のことで、明治以降の動物図鑑には「ヤマイヌ」と記載されているケースが多い。古くは「オオカミ」「オイノ」「ヤマイヌ」等と呼ばれており、地域によっては「オオイヌ」や「カセギ」などの正体が判然としないイヌ科の動物が生息していた記録も残る。 農村地帯では、イノシシやシカなどから農作物を守ってくれる神さまのお遣いと捉え、「おいぬ様」「ご眷属(けんぞく)様」などと呼ぶ狼信仰が根付いていた。かたや、牛馬の産地であった東北地方では、オオカミは主要産物を襲う害獣でもあり、明治初期から半ば頃まで、捕獲した者には報労金が与えられ、盛んに駆除された。 狂犬病やジステンパーなどの犬の病気に感染して数を減らしたことや、明治以降は国土開発で生息地が失われたことも、絶滅の一因となったと考えられる。 開国後に西洋文明が流入してくると、明治政府は産業振興と国威発揚を目指して、博覧会開催や博物館設立を急いだ。捕獲されたニホンオオカミのごく一部が、剥製として遺され、現代まで保管され続けてきた。これらの標本は、ニホンオオカミ研究において極めて大切なものだ。
分類学上の混乱
ニホンオオカミが世界に知られるきっかけとなったのは、江戸時代に長崎出島に滞在していたドイツ人医師シーボルトが、「オオカミ」と「ヤマイヌ」の標本をオランダに送ったことによる。 ライデンの王立動物博物館館長のテミンクは、届いた3体分の標本(頭骨と全身骨格 / 頭骨のみ / 頭骨と皮剥製)を、欧米のオオカミとは異なる Japansche wolf とし、オオカミとヤマイヌを特に区別せず、一括してCanis hodophilaxと 学名をつけてしまった。 その後、 ライデン博物館の研究者らとまとめた『日本動物誌』には、 3体の標本のうちの剥製標本の図を学名とともに記載。 後の研究者により、 この剥製標本と頭骨の組み合わせが、 ニホンオオカミのタイプ標本であると指定された。どういう訳か、この剥製の台座の裏には、Jamainuと走り書きされている。