【対談連載】フューチャー 代表取締役会長兼社長 グループCEO 金丸恭文(上)
【東京都品川区発】建設業を営んでいた父親。事業は役所や元請けの意向に左右されるものだった。その背中を見て、他人に依存しない人生を送りたいと、幼い頃から起業を目指していた金丸さん。学校では、きちんとした根拠の説明がない頭ごなしの指導に疑問を抱き続け、反逆児とすら呼ばれた。大学を卒業した1978年は、まさにパソコン時代の黎明期。コンピューターが社会に広がっていく様子を楽しみ、寝る間を惜しんで身を粉にして働いた。早くからITの先駆けともいえる仕事に携わり、時代の最先端を走りながら、技術力の高さを武器に起業する。 (本紙主幹・奥田芳恵) ●寝る時間も惜しい毎日 20~30年分の濃厚な時間を過ごした 芳恵 会社員時代は、絵に描いたような「モーレツ社員」だったと伺いましたが、どんな仕事ぶりだったんですか? 金丸 11年ほどやりましたが、振り返ると濃厚な日々でしたね。普通の人の20年から30年分はあったんじゃないかと思います。とにかく兼務に次ぐ兼務でむちゃくちゃ忙しかったですが、寝ていたら損という感じでした。日々刺激的なニュースが米国から入ってくる。特に一番関心のあったマイクロソフトの動向は、夜の10時以降に知ることになります。仕事を終えて仲間で集まって、酒を飲みながら情報交換や熱い議論をする毎日でした。ラーメンでしめて、家に帰るのが午前3時ぐらい。会社を設立した後も、上場するまではそんな感じでした。 芳恵 大学卒業後、最初に就職されたのはTKCですよね。なぜこの会社を選ばれたのですか? 金丸 大企業でワンオブゼムになるより、未上場で伸びている会社を選びたかったんです。新卒でも活躍できる場が多いだろうと。候補は三つありました。日本リクルートセンター(現リクルート)と東京エレクトロン研究所(現東京エレクトロン)、そしてテイケイシイ(現TKC)です。3社とも今では大企業ですよね。リクルートは最初はアルバイトからのし上がれ、という感じだったのでやめました。半導体製造装置専門商社の東京エレクトロンはとても魅力的でしたが、はじめから経営者を目指していたので、大学の会計の先生が顧問をしていたTKCがいいかと思い決めました。結局その経験が今につながっています。いい選択だったと思います。 芳恵 後にコンサルティングビジネスにつながっていく、というわけですね。銀行で修業という選択肢はなかったのですか? 金丸 ありませんでした。もし銀行を選んでいたら、今の自分はないと思います。TKCでは、コンピューターを使ってオンラインで会計サービスを提供していましたから、当時最先端の16ビットPCの開発をする、という経験ができました。専用のPCをつくり、全国の会計事務所に提供する。それを本部の汎用機に接続して、会計サービスを運用します。通信とハードと会計のアプリケーションを組み合わせたビジネスで、当時としては最先端ともいえる仕事でした。 芳恵 しばらくして、TKCから別の会社に転職されたんですよね。 金丸 会計の世界は、自らイノベーションを起こしにくい分野なんです。もっと広い分野で大企業を相手にイノベーションを起こせるビジネスがしたかった。そこでロジック・システムズ・インターナショナル(ロジック)に移り、セブン‐イレブンのPOSシステムなどを開発しました。店舗から毎日情報を集め、売れ筋や価格帯、客層の分析をしてグラフ化してフィードバックするシステムです。コンビニ業界ほどデータを駆使して変化に対応するビジネスはありません。やりがいがありました。その後、ロジックと一緒に設立したNTTPCコミュニケーションズや、NTT、トヨタ、日本信販、ウシオ電機などと設立したSIerのインフォネクスの取締役も務めました。 ●頭ごなしの指導に疑問 反逆児と言われて 芳恵 そしていよいよ起業されるわけですが、若くして大役を務めておられて、よくすんなり辞められましたね? 金丸 いや、黒字にしてから辞めろといわれました。しかも累積で。結局、2年かけて達成して、受注残もつくってから「卒業」しました。35歳でした。 芳恵 最初から経営者を意識しておられたとおっしゃいましたが、お父様の影響でしょうか? どんな仕事をなさっていたんですか? 金丸 鹿児島で建設会社を経営していました。生まれは大阪で、父の起業で鹿児島に移り住んで高校まで過ごしました。とにかく九州を出たかったので、神戸大学に進学しました。 芳恵 家業を継ぐというお考えは? 金丸 まったく。公共事業が多かったので、仕事は国次第。港湾工事もやっていましたが、これもいわば風任せの事業です。羽振りはいいかもしれませんが、役人や政治家には弱い。下請けだったのでなじみの元請けから仕事をもらう。結局誰かに依存しなければ成り立たない事業なんです。そんな人生は送りたくないと小さい頃から思っていました。私の価値観とは真逆だったんです。 芳恵 それで、独立独歩の人生を歩むべく、一生懸命勉強されたんですね。 金丸 いや、常に異端児扱いで、先生の言うことを聞かない変わり者でした。小学生の頃、「あなたは反逆児だ」と言われたこともあります(笑)。 芳恵 先生の言うことは聞きたくなかったのですか? 金丸 昔の先生がよくやっていた、根拠の説明もなしに、単に「こうやれ」という指導に納得がいかなかったんです。なぜ? と思ってしまう。反骨精神が旺盛だったんですね。仕事でもそうです。根拠のない思い付きの提案は許しがたい。その方法以外に何を考えたのか? と常に問います。「それは考えていません」では話にならない。10なら10、考えてきちんとした理由で選択肢を絞り込んで出た結論、というのなら納得できます。ポジショニングだけでロジックなしに命令するような人が増えれば、組織は陳腐化します。 芳恵 ご両親は勉強しろとおっしゃったんでしょう? 金丸 親から言われたことはないですね。父は子育てには関わらない人でした。一度、母が決めた塾に弟と2人で入れられたんですが、行ったのは最初の1回だけ。あとは塾に行ったふりをして野球をして帰っていました。2週間ぐらいして塾からの電話でばれて。母に問われて正直に答えたら、「どうりでいつも真っ黒になって帰って来てたのね」と言われました。 芳恵 それでも、小さい頃から本はお好きだったんですよね。 金丸 1日3冊は読んでいました。近所の本屋で「マンガでもどんな本でもツケ払いで買っていい」と母に言われていたんです。ファーブル昆虫記を読んで昆虫博士になりたいと思ったり、キュリー夫人を読んで物理学博士になりたいと思ったり……。運動にも、陸上、 野球、そしてハンドボールとのめり込みました。これが今の日本ハンドボール協会の活動とつながっています。(つづく) ●書籍『ウィナーズ──アメリカンビジネスの勝利者たち』 元ウォールストリートジャーナル編集長 カーター・ヘンダーソン・著 望月和彦・訳 モノへのこだわりがないと話す金丸さん。取り出したのは一冊の書籍だった。当時はやっていた起業家スクールには見向きもせず、100回以上繰り返し読んだ起業のバイブルだ。2人で会社を起こし、営業活動の毎日。訪問先でけんもほろろに断られても、いつも鞄に忍ばせていた本書を開き、紹介される数々のエピソードに勇気をもらった。奮起して頑張った思い出が詰まっている。 心にく人生の匠たち 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。 奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長) <1000分の第361回(上)> ※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。