ジョシュ・バーネットも興奮した国立競技場9万人の熱狂。「Dynamite!を超える大会はアメリカでも開催できない」
ジョシュは「少なくともアメリカでも90年代はUFC=デスマッチというイメージが非常に強かった」と証言する。 「でも、時代とともにそういうイメージは払拭され、いまやケージは普通に使われるようになった。その傾向は日本でも同じだと思う。いまや日本のMMAでもケージを使う大会のほうが多くなっているだろう?」 ケージで闘うメリットは? 「ケージを使って動いたり、向きを変えたりすることができるので、それをもとに作戦を組み立てることもできる。ただ、アメリカでもいまだにケージは扉を閉められると、『もうその場所から逃げられない』というイメージが残っていることは確かだね」 ■強烈だった「UFC反対運動」 MMA黎明期にはそういったイメージがさらに強かったせいだろう、アメリカでは「暴力的で危険」という理由で、激しいUFC反対運動が展開された。主導者はボクシングの既得権益を守ろうとする親ボクシング派の連邦上院議員、ジョン・マケイン(共和党)だった。 筆者は、この反対運動の風を思い切り受けたことがある。97年2月7日開催の『UFC12』を現地取材しようと当初の開催予定地であるニューヨーク州ナイアガラホールズに入ったが、大会前日になって反対運動の影響を受け開催地が変更になったのだ。 しかも当初の変更地であったオレゴン州も直前になってNGとなり、最終的にアラバマ州の田舎町に落ちついた。選手や関係者のために用意されたチャーター便にギリギリで搭乗させてもらった瞬間、得体の知れぬ汗がドッと吹き出たことを覚えている。あれほど大会前に疲れた取材はなかった。 主催者が会場変更を余儀なくされるほど強烈だった一連の反対運動について、ジョシュは「非常に政治的な問題だった」と切り捨てた。 「無能な政治家たちが何か新しいことをやろうとしたときにそれが反対運動と結びついた。あのような政治家は植林してから果物を育てるという発想がなく、すでに熟している果物をどこからか持ってくるような発想しかない人たちだったと思う」 結局、UFCは生き残るために階級制の導入、オープンフィンガーグローブ着用の義務化など、ルールを整備することで競技化を進め、州ごとに運営されているアスレチック・コミッションとの対話を図った。その努力は実を結び、2000年9月にはニュージャージー州のアスレチック・コミッションが全米で初めてMMAを認可するようになった。 ここからUFCの躍進は始まるわけだから、アスレチック・コミッションが果たした役割は大きいと思われる。しかし、ジョシュの目から見ると、反対運動が鎮静化したのはそのせいではないと言い切る。