島津斉彬による集成館事業の実態と、一橋派・南紀派に分かれた将軍継嗣問題との関わり
■ 将軍継嗣問題と一橋派・南紀派 将軍継嗣問題とは、13代将軍徳川家定の継嗣決定をめぐって、一橋慶喜(17歳)を推す一橋派と紀州徳川慶福(家茂、8歳)を推す南紀派による派閥抗争である。家定は暗愚・病弱とされ、12代家慶時代から憂慮されていた。しかも、ペリー来航時、衆望を集めた水戸斉昭が期待外れであったため、将軍継嗣問題が俄然クローズアップされたのだ。 南紀派の推進者は、紀州藩附家老の水野忠央(ただなか)とされ、大奥工作が大々的になされ、水野自身の妹を家慶の側室にしている。また、彦根藩主井伊直弼もコアメンバーとされており、安政元年(1854)5月および翌2年(1855)1月に、老中松平乗全(のりやす)に継嗣(名前は挙げず)の必要性を伝達した。血統の重視、外部意見の拒否、斉昭への嫌悪の3要素によって、南紀派は結束を固めていた。 一橋派の推進者は、斉彬・徳川斉昭・松平春嶽ら有司大名が中心であり、そこに水戸藩関係者(安島帯刀・平岡円四郎ら)、老中阿部正弘、岩瀬忠震らの海防掛らが加わった。一橋派は、英明・年長・人望ある将軍(=慶喜)のもとで、幕権の再強化を図りながら、自己の幕政参画を期待していた。
■ 斉彬による慶喜面談と斉昭という爆弾 嘉永6年(1853)8月10日、松平春嶽が老中阿部正弘に初めて一橋慶喜の擁立について入説した。しかし、阿部は同意をしたものの時期尚早と判断し、春嶽にまだ胸に留めるよう釘を刺した。なお、この頃から斉彬は春嶽と連携を開始したと考える。 安政3年(1856)11月、斉彬は養女篤姫を実子として13代将軍徳川家定へ入輿させた。これは幕府からの要請であり、よく誤解されるような、将軍継嗣問題に絡む権謀術数ではなかった。しかし、斉彬は篤姫の地位の利用を画策するようになり、西郷隆盛に命じて大奥工作を図ることを企図した。しかし、篤姫は斉彬の期待に応えようと努めたものの、そう簡単に首尾よくは運ばなかったのだ。 安政4年(1857)3月27日、斉彬は慶喜と初対面を果たした。一橋派を代表して、斉彬による採用の最終面接のようなイメージである。斉彬は、「実に早く西城に奉仰候御人物」(春嶽宛書簡、4月2日)と、将軍継嗣に相応しい人物と評価している。その一方で、「御慢心之処を折角御つゝしみ御座候様、被仰上候て可然と奉存候」と、慶喜の自信過剰な態度を戒める必要性を助言することも忘れなかった。 また、斉彬は春嶽に対し、この段階で慶喜継嗣のことを申し出て、万が一不都合になった場合は、かえってそれ以降の差し障りになるだろうと考えており、伊達宗城も賛同していると付言した。さらに、斉昭の評判が芳しくないため、慶喜推薦を控えることを助言し、斉昭と距離を置くことまで勧告している。一橋派にとって、慶喜実父の斉昭の存在が大きな障害となっていたのだ。 次回は、斉彬による西郷隆盛を起用した、将軍継嗣問題を有利に運ぶための工作とその帰結について、真相に鋭く追ってみたい。
町田 明広