「あなたは日本に帰りなさい!」ロシア人妻が泣きじゃくった悲しい理由【シベリア抑留秘話】
1946年8月、木村鉄五郎氏は、身重の妻とともに、ソ連占領下の樺太から北海道へ向けて船を出した。無情にもソ連兵に捕まった2人は生き別れになったのち、夫は抑留先で結婚して新しい家庭を構え、妻は日本に戻り、子を必死に育てながら夫の帰りを待った。ノンフィクションライター・石村博子氏が夫婦のその後に迫った。本稿は、石村博子『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』(KADOKAWA)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 「何かあったら互いに星を眺めよう」 生き別れた夫婦は再会を誓った 捕まった時のことを、美代子さん(仮名)はテレビ番組のインタビューの際にこう語っている。 「警備艇の中で、私は再婚しない、札幌で待ちますと言いました。星のきれいな晩で、何かあったらお互いに星を眺めましょうねと[鉄五郎氏が]言って、それが最後の言葉でした」 このとき美代子さんは妊娠しており、木村鉄五郎氏もそのことは知らされていた。 豊原刑務所で服役中、美代子さんは男児を出産。哲郎(仮名)と名前を付けた(生年月日については、調査票に昭和21年生まれとだけ記載されている)。 1947年、美代子さんは釈放され、その年の10月3日、真岡から徳寿丸に乗って乳飲み子の哲郎さんと共に函館に引き揚げる。そのまま実家に身を寄せたが、実家はたくさんの弟や妹たちがいる家だ。 赤ん坊の哲郎さんだけでなく、10人きょうだいの長女として、美代子さんは働かなければならなかった。建設現場、開拓農家、理髪店……、働ける場所があればどこへでも行って日銭を稼いだ。 鉄五郎氏が帰ることを支えにしていたが、シベリアに連れていかれたとの情報が帰還者からの聞き取りをもとにして役所から伝えられるだけで、それ以上のことは分からない。
美代子さんは、幼い哲郎さんが「父さんが欲しい」と泣くたびに「いつかきっと帰って来るからね」と言って聞かせた。自分でもその思いは消えず、引き揚げ10年目に自分は人妻であることは間違いないからと、結婚指輪を購入する。 ● 妻が待っているとは知らずに 夫はシベリアで家族を作った 手紙の返信はなく、その後の情報もないままに年月は過ぎていく。やがて“父さん”という言葉が哲郎さんと美代子さんの間で出てくることはなくなった。 木村家でも皆が諦めの心境を深めていた。「兄貴はシベリアに行って死んだのだろう」と鉄雄氏(編集部注/鉄五郎氏の実弟)が発しても、否定する人は誰もいなかった。 1970年頃、鉄五郎氏はエンマ・ペドロヴナ・シュタング(1923年生)と一緒に暮らし始める。エンマは建築関係の仕事に就いていて、古くからの友人の1人だった。 1975年4月29日、2人はカンスク市役所に婚姻届を提出して、正式の夫婦になる。そのエンマの連れ子がニーナで、少し東洋系の顔立ちをしている。ニーナの父親は、キムという朝鮮人である。 「話を明確にするために、私の母について少し説明します」と、ニーナは自分の両親の歴史について説明してくれた。