大敗「公明党」が直面する“危機”の正体…学会員の高齢化だけではない「庶民の党」を揺るがす深刻な課題とは
「私なりに頑張ったつもり」
総選挙で落選した公明党代表の石井啓一氏(66)の辞任が決まった。仮に当選していても8議席減という大敗の責任は問われたはずで、ここにきて党の「トップ人材の払底」という深刻な危機に再び直面している。支持母体である「創価学会員の高齢化」と同時に進行してきたこの課題は、公明党の弱体化を早めつつある。【広野真嗣/ノンフィクション作家】 【写真をみる】「マジでなにやってんの…?」 しょうもなさすぎる「公明党」の“ラップ動画”
「石井さんに逃げるような姿を晒されてしまうと、彼を押し上げようと汗をかいた現場もなんか悪かったのかってことになるじゃない。ちょっとは考えてほしかった」 そんな苦言を呈したのは、この選挙期間中、県外から埼玉14区に応援に入っていた創価学会のある地域幹部の1人だ。 矛先を向けた「逃げるような姿」とは、敗色が濃厚になった10月27日夜、石井氏が報道陣からの質問に答えず車に乗り込んだ姿を指している。 確かに、石井氏の目線に立って約1万票という得票差を見ると、自民党の裏金問題の“もらい事故”がなければ結果は違ったかもしれない。そうした意識の裏返しだろうか、開票センターでは石井氏が「私なりに頑張ったつもりだ」と述べる場面もあり、総じて「私は悪くない」という悔しさが色濃くにじむ。本人には受け止めがたい挫折に違いない。だが、学会員には別のメッセージとして伝わったのだ。 建設官僚出身で、党幹部まで順調に駆け上がった石井氏だが、党代表に有力視されながら選挙直前の今年9月までなかなか実現しなかったのは、この“堅物ぶり”がトップの資質として懸念されたからと囁かれる。自民党や立憲民主党に合わせて公明党もトップ交代に踏み出したものの、心配は、最悪のかたちで的中したともいえる。と同時に、一体感を強みとしてきた学会・公明党の指導部が、現場との間に生じる「意識のギャップ」を修復し、牽引していく新しいトップ人材を探しあぐねている構図が浮かんでくる。
およそ20年で「300万票」を減らす
公明党の比例票は今回、596万票まで落ちた。ピーク時(05年)には898万票という集票力を誇ったが、20年近くをかけて約300万票も減らす長期低落傾向である。 原因としてしばしば、「学会員の高齢化」が指摘されるが、同時に、「リーダー人材の払底」が組織離れを加速させている可能性もある。 このメカニズムを考えるにあたって、公明党議員の人材によくある2つのパターンを頭に入れておく必要がある。 1つは学会の学生部長や青年部長など、信仰活動を担う全国組織のトップを任されてきた活動家の系譜。もう1つは弁護士や官僚上がりなど、まばゆいばかりのエリートコースを歩んだ者の系譜だ。 前者の軸になるのは学会の出世コースである男子部長、青年部長の経験者だ。06年から09年に党代表を務めた太田昭宏氏(79)は京大大学院修了後に公明新聞記者など経て議員になるが、それまでの間、宗教組織の上では、男子部長、青年部長を経験している。太田青年部長時代の部下だった井上義久氏(元副代表)もこの系譜に属する。党所属の議員ではないが、自民党の菅義偉元首相と気脈を通じ、自公のパイプ役として学会サイドで選挙を仕切ってきた副会長の佐藤浩氏は、やはり青年部長などの経歴を歩んだ人物だ。 太田氏が青年部長に就いた1982年当時のことを70代の学会員が振り返る。 「あの年、所沢の西武球場を借り切って、『世界平和文化祭』という学会のイベントを一緒に作り上げたんです。だから太田は飲み食いを共にし、一緒に汗をかいた同志だよ。彼が党代表になった時(06年~09年)、『あいつのために』と選挙を頑張った同年代の人間もたくさんいたよ」 50代の都内の地域幹部も「今の学会幹部と違って佐藤さんは僕らと酒を飲むし、集会でマイクを持てば涙を流して語る。彼が部長時代の青年部は活発でしたよ」と回顧した。こうした背景があってこそ、選挙を通じて多くの学会員を動かすことができたと考えた方がよい。